最終日は八重山諸島の人口の90%が集中し、宿泊地でもある石垣島巡りである。バスの出発前に、ホテルの近くにある重要文化財の宮良殿内(みやらどうんち)を訪ねることを思いついた。沖縄本島では「鉄の暴風」で古来の建造物は破壊されつくしたが、士族様式の建物で沖縄県でただ一つ残ったのがここ八重山の宮良殿内である。首里王府が禁じていた首里士族の屋敷構えにしたのために、数回にわたって建て替え命令を受ける。それをやり過ごし、しかも戦火をまぬがれて残ったのは歴史の刻む妙を象徴している。
天皇皇后は8年ぶりの沖縄訪問となった2004年に、宮古島と石垣島を訪れている。そのとき宮古島では、国立ハンセン病療養所の宮古南西園を見舞われている。先の戦争で八重山では日本軍により山間部へ強制避難させられて、マラリアにかかり三千余名の犠牲者がでた。八重山全人口の10%にものぼる。やっと1997年に「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊碑」が完成した。天皇皇后は石垣島では、この慰霊碑を参られている。私たちは走るバスの中からほんの一瞬だけ、慰霊碑を確認した。
石垣めぐりはまず西海岸の名蔵湾沿いの石垣焼窯元を見学し、つぎは黒真珠センターのある真っ白な砂浜の川平(かびら)湾だった。川平湾を見下ろ遊歩道を両陛下も歩かれたという。さらに私たちはグラスボートに分乗して湾内のサンゴを見学した。そしてバスは再び名蔵湾沿いの道を戻り、「やいま村」を訪ねた。「やいま」とは八重山のことだ。広々とした敷地に一般の民家、農民の家、漁師の家が移築されて建ち並び、昔の島の人たちのくらしが再現されていた。
バスが坂道を登り始めると、咲きはじめた緋寒桜の並木が続いていた。市街地を見わたせるバンナ岳展望台でガイドさんの説明を受ける。1771年に大津波が八重山の島々を襲い甚大な被害を与えた。死者行方不明者は九千余にのぼり、これは八重山の総人口の30%に当たる。東の太平洋から押し寄せた津波は、このバンナ岳と北に見える於茂登(おもと)岳(526m)に続く尾根を削り取り、名蔵湾に流れ込んだという。名蔵湾のすぐ向こうに西表(いりおもて)島が見える。西表島とは於茂登岳の西にある島ということらしい。このあとバスは「みんさー工芸館」立ち寄り、パイヌシマ空港に向った。
沖縄戦で住民と兵士が多く犠牲になったこともよく知られていることですが、慶良間諸島での戦いということは知られていると言っても関心のある人がほとんどではないでしょうか。