玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

鹿鳴館時代とこぼれ話

2011年01月27日 | ねったぼのつぶやき

 欧米では、夜会や舞踏会が大きな役割を果していた。列強の外交官は夫人同伴で食事や舞踏を楽しみ、時にその席で重要な外交上の駆け引きを行った。それは明治移行期の欧米視察者には衝撃だった。日本では女性が人前での立ち振る舞いに不慣れな時代で、時の少なからぬ高官が即戦力となる玄人の芸者・娼妓を妻として迎えた理由もここにある。不平等条約の改正を急いだ政府は、迎賓館すらなかた当時外務卿の井上薫を中心に宴席外交をも行える施設の必要性を唱え、恒常の官立社交場が新築されたのが鹿鳴館だった。

200pxprincess_sutematsu_oyama  鹿鳴館では連日夜会や舞踏会が開かれ、諸外国の外交官はもとより政府高官達も彼等とのパイプを構築する為夜な夜な加わった。そこには日本が文明国であることを示す涙ぐましい努力があったのだが、外交官達は上辺では宴を楽しみ、方や文書や日記には日本人の「滑稽な踊り」の様子を詳細に記して嘲笑していた。体格・体型に合わない燕尾服や夜会服に四苦八苦しながら、真剣な面持ちでぎごちなく踊る姿が可笑かったのも無理はない。

 その中で、留学中も際立っていた捨松(頭脳明晰・長身・容姿端麗)は水を得た魚の様だった。英・仏・独語を駆使し、時に冗談を織り交ぜながら諸外国の外交官たちと談笑した。12歳の時から身につけていた社交ダンスのステップは堂に入り、ドレスの着こなしも光っていた。適齢期を過ぎなんとしていた捨松は19才年長の陸軍卿大山巌に請われて結婚したが、又日本初のチャリティバザー等開き、梅子を名実ともに絶えず支援した。

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