玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*鹿児島の歴史

2022年03月10日 | 捨て猫の独り言

 隼人とは、日本古代に現在の鹿児島県に居住した人々とされる。奈良時代初めまで朝廷の支配の外にあり、南方との交易によって生活していた。なにせ古代のことなので諸説あるらしい。平清盛は対外貿易の中心である大宰府を押さえたのちに、弟の忠度を薩摩守に任命、さらに大隅の有力者の建部家を家臣にした。

 平氏滅亡のあと、鎌倉幕府は南九州支配のため島津家を送り込む。彼らは隼人の馬術や武術を取り込んでゆく。中世の薩摩では禅僧の手による朱子学が広まる。島津家は京都の文化に高い関心をもち、禅宗を保護した。それによって福昌寺(鹿児島市)などの禅寺が栄えた。1543年種子島に鉄砲伝来、1549年ザビエル鹿児島上陸、1571年信長延暦寺焼討、1587年秀吉九州平定(島津氏服従)、1609年島津氏琉球王国征服。

 戦国動乱のなかで、島津家は九州の大半を勢力下におさめた。しかし島津家は豊臣秀吉に敗れて、その領地を薩摩、大隅と日向の一部とされた。さらに関ヶ原の戦い(1600年)で敗者の側に着いたことによって江戸時代を通じて幕府から敵視され、薩摩藩はきわめて閉鎖的になってゆく。島津家はキリシタンと一向宗(浄土真宗)を禁止したが、農村では一向宗の「かくれ念仏」がさかんであった。

 

 江戸時代の薩摩藩領内では土地の守り神信仰ともいえる「タノカンサァ(田の神様)」と呼ばれる石像を祀ることが流行った。明治維新の神仏分離、寺院の廃止により薩摩藩では寺院のほとんどが破壊された。福昌寺は島津氏の菩提寺のためしばらく残されていたがまもなく取り壊され、現在は歴代島津家当主の墓地群だけが残っている。このとき寺宝の多くが破壊されたり行方不明となり鹿児島県が文化財過疎県となる一因となったとされる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする