玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*辺見庸を読む

2021年02月11日 | 捨て猫の独り言

 存命する作家の中で気になる作家の一人は辺見庸である。野球帽を目深にかぶった姿が印象的だ。早稲田大学卒業後に共同通信社に入社、外信部のエース記者として知られ北京、ハノイ特派員などを務め、1956年に退社して執筆活動に入る。2004年に講演中に脳出血でたおれ、翌年には大腸癌に冒される。今回読んだ本はその直後の2006年に出版された「自分自身への審問」だ。幸いにもその後も生きて処女詩集を出すなど活動している。

 

 《第一章》には伊藤博文が登場する。日露戦争に勝利した日本が韓国に強要して条約を締結し、韓国は日本の「保護国」とされ朝鮮への専制支配が進められていった。ところが日韓併合は韓国側の求めに応じてなされたと与党幹部まで言い放つようなご時世になった。他方、日本人拉致問題はメディアで連日連夜流される。かつてアジアの人々に到底癒しがたい恥辱を植えつけ、そうすることにより自らも深い恥辱の底に沈んだこの国はもはや、恥辱とは何かについて考える力さえ失いつつあると述べる。

 《第五章》の「自分自身への審問」は東京信濃町の病院のベッドの上でパソコンに打ち込まれた。医師からは文章表現はもう無理といわれたこともあったようだ。あとがきに「独り黙(もだ)していては到底堪ええない、血も凍るような不安と恐怖ではないだろうか。それらを私は文に転嫁しようとしたのである。神意のこれが正体だ。つまり臆病者の無神論者だからこそ、入院しても落ち着きなく文をこしらえたわけである。拙文がもしもいささか遺書めくとしたら、これも運命への畏れで内心狼狽しているからだろう」と書く。この第五章はドストエフスキーの文体を思い起こす。

 「・・黙秘したい。少し疲れてきたようだ・・」ーそうくると思ったよ。肝心な問題になると逃げをうつ。お前という男はひたひたと近づいてきた自分の死期という、じっと黙すべき生の夜陰の時さえ、誰かに衒って見せたいという手のつけられない性格の持主なのではないか。世界は善も悪も神も戦争も、なんでもためらわず購う単一の市場と化している。とお前は言うが、おまえ自身病をあれこれ衒い、知死期のありようさえ文にして売るかのような自己商品化を地でいっているではないか。お前のいうことはでたらめだ。

コメント
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