暮れに映画 「禅」 の招待券を2枚頂きました。1月から全国各地で封切られましたが最寄の立川での上映を待つことにしました。鎌倉初期の禅僧で曹洞宗の開祖である道元の生涯の映画化です。親鸞や日蓮に比べ物語性に欠けるとされ過去に映画化されていません。3月8日の日曜日に出かけました。ビルの違う階では話題の映画 「おくりびと」 が上映されていました。それに比べてこちらの観客数の少なさはやむを得ないところです。
道元役は歌舞伎俳優の中村勘太郎(27歳)です。中国語を半年かけて基礎から勉強し、撮影現場で中国人通訳を驚かせるほどだったそうです。勘太郎はなかなかの大器と評判ですが私も同じ思いをもちました。道元は24歳で宋に渡りました。中国のある寺の食事係の老僧に叩きのめされた話があります。立派なお年なのに雑用ばかりでなんのいいことがありますかと問う道元に、外国の好青年よあなたはまだ修行の何たるかをご存じないようです、経典の文字がなにを意味するものなのやらご存じないものとみえると老僧が答えるのです。
映画はその場面から始まりました。食事係の老僧役は笹野高史です。「外国の好人、いまだ弁道を了得せず、いまだ文字を知得せざるあり」 というセリフは観客には了解不能です。この映画の難点は導入部にありました。隣の席の人は 「映画の最初はうとうとしていた」 と正直でした。道元は実際的な人だと思います。なぜなら食事係の職(典座=てんぞ)が特に強い求道心がなければ勤まらない大変な要職であると強調しているからです。著述の一つに 「典座教訓」 があります。
「普勧坐禅儀」 の内容は具体的で丁寧です。坐禅は静かなところがよろしい。坐る時には厚く敷物をし、坐蒲をつかう。半跏趺坐は左の脚を右のももの上におくだけである。衣服はゆるく身に着ける・・・・などです。手元の映画のパンフレットの初め頁には 「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり」 があり、最後の方には 「生という時、生よりほかにものはなく、滅という時、滅よりほかにものはなし」 とあります。道元の考えはひょっとすると死ねばそれっきりという考えに近いのかもしれません。この世こそ浄土でなければなりません。