私が若い頃に働いていた組織は、全体の人数は500名くらいいて、毎年男性職員は10名前後しか採用していませんでした。
私がブログでよく取り上げる元同僚で友人のTやH-彼らの採用年度もその程度の人数しか採用されていなかったと思うのですが、以前彼らとドイツ旅行をしたときに、実は彼らが同じ公立の小学校出身ということを知りました。更に驚くことに、彼らの同期のもう一人であるIさんも同じ小学校という話。そしてお父様が転勤族であったIさんが転校したあと、その学校のそのクラスに転入し、Iさんが座っていた机に座ったのが、彼ら3人の同期の別の一人ということが後で判明。
同期の10人前後のところ、3名が同じ公立小学校出身(エスカレーター式ではないですし、確か3名ともその後は別の進路)であり、別の1名が地方の学校で同期が座った机で勉強というなんというのを聞いたとき、「人事がオチャメで、小学校が同じ人を選んだ!?」と一瞬考えてしまったんですが、まあさすがにそれはないでしょう。
『縁』というものがあるのなら、これなどもそうかもしれません。
なんて、『縁』の話をしましたが、『縁』は『人との縁』もあれば、『国との縁』もあるように思います。
私は、欧州文化、文学、芸術、歴史(近現代史)などに興味がありはするのですが、正直を言うと、欧州の中でイタリアよりも、フランス、ドイツに惹かれたり、興味があるものが多いのです。が、何故か縁があるのは“イタリア”。
まず、一番最初にできた海外の“親友”は17歳の時に従姉の友人に紹介されたイタリア人の女の子(リアーナさん)と言うのから始まって、イタリア人の友人がたくさんできます。
(ドイツ人の友人とも相性は良いですが、数が違う)
そして、イタリア人でなくても、何故か周りには、イタリア語を習っていたり、イタリア在住の人がいたり、イタリア関係の仕事をしていたりする人が多く、イタリア情報も入りやすい。
そういえば、先日のブログ、『トリノのルイジさんとスマレ先生』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20120215
ですが、あのブログを書いた日に、スマレ先生が、インターネットサーフィンでたまたま私のブログを見つけたというのも、『縁』あってこそなのかもしれません。
さて、このブログの後日談ですが、スマレ先生が日本の本をいくつか翻訳していることから本の話になって、ルイジさんに、
「私の小中学校の友人Kさんは、本業の傍ら、イタリアの本を翻訳しています。
以前彼女は、『出版不況というものがあるけど、とにかくイタリアの本-特に小説-の翻訳依頼はあまりこないので、英語の本の翻訳依頼の方が多い』と嘆いていました」
という話をしたところ、私の英語を勘違いしたのか(私の友人が「訳したい本がない」と受け取ったよう。)、ルイジさんは、
「あなたの友人に、Valerio Masimo Manfrediの本の翻訳はどう?僕、彼が大好きなんだ。」
と書いてきました。
早速、このManfrdiという作家がどういう人なのか調べて見ると・・・なんと、この人の本はもう既に日本で数冊翻訳されていて、そのうち3冊を翻訳していたのが、Kさん。
まあ、いくらイタリアの本の翻訳の数が少ない上、イタリア語の翻訳者が少ないとはいえ、この偶然もやはり『縁』あってのことなのでしょうか・・・。
さて、先の友人Tにこの話をしたところ、
「僕の場合、いくら同期3名が同じ小学校出身だとしても、別に『縁』を感じたことはなかったな・・・。国でも、そうした『縁』を感じるというような国はないね。
たまたま一番興味があるものが多いドイツが赴任先になったのは、それは一種の『縁』なのかもしれないけど、『興味がある』と『縁』は別物だし。」
という返事が返ってきたので、こう返しました。
「『縁』は実体なんかないので、ある、ない、って証明できないでしょうね。
鈍感な人の場合は気がつくことはなく、敏感な人が気が付くだけ。まあ、後者の方が間違いなく人生を楽しめるかもね。」