Various Topics 2

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ナチスとホロコーストと医療業界-2

2024年05月15日 | ナチスドイツとホロコースト・ホロコースト産業

「ホロコースト」の始まりが、「精神病患者」の安楽死。主導したのがヒトラーの主治医の一人のカール・ブラント。カール・ブラントと敵対別の主治医テオドール・モレルはヒトラーの麻薬も投与。

独裁を強いた国のトップや側近が皆「ドラッグ中毒」だったら、彼らの決定はどこからくるでしょうか?

そもそも、ヒトラー達は「精神障害」と診断されることを恐れ、より独裁がエスカレートするでしょう。

カール・ブラント - Wikipedia

テオドール・モレル - Wikipedia

 

「ホロコースト」は「ユダヤ人」だけが被害者のようにされていますが、始まりは・・・。メスを入れられることのない医療業界。

T4作戦 - Wikipedia

T4作戦(テーフィアさくせん、独: Aktion T4)は、1930年代後半からドイツ国で精神障害者や身体障害者に対して行われた「強制的な安楽死」(虐殺)政策である。 1939年の夏ころから開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、ベルリンの「ティーアガルテン通り4番地[# 1]」(現在同地にはベルリン・フィルハーモニーがある)を略して[1]第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である[2]。 一次資料にはE-Aktion(エー・アクツィオーン)〔E作戦〕、もしくはEu-Aktion(オイ・アクツィオン) の名称が残されている。この作戦の期間中の犠牲者は、公式な資料に残されているだけでも7万273人に達し[3]、その後も継続された安楽死政策により、後述の「野生化した安楽死」や14f13作戦によるものも含めると15万人から20万人以上が犠牲になったと見積もられている[4]。

(中略)

19世紀末にドイツに社会的ダーウィニズムが流入して以降、経済効率性を最重要視して障害者を殺害することを正当化する思想は優生学と結合しながら着実に地歩を固めていった。ヴァイマール共和国で社会保障費が増大したこと、特に大恐慌によってドイツ経済が破綻したこととヒトラー政権が1933年に成立したことは、障害者の殺害が正当化される決定的要因になった。

(中略)

1920年代末には、ドイツの一般大衆は、障害を持つことは恥だとの認識を持つようになっていた[23]。また、障害者は生きるに値しないと見なされた[23]。

1930年代になると優生学に基づく断種が議論されるようになり、1932年7月30日にはプロイセン自由州で「劣等分子」の断種にかかわる法律が提出された[24]。この法案は、パーペン首相が画策したプロイセン・クーデターの混乱のために成立こそしなかったが[25]、1933年7月の遺伝子性疾患子孫予防法[# 4]の原型になった点で大きな画期となった[26]。

(中略)

1938年末か1939年の初めころにある人物が依頼を持って、ライプツィヒ大学医学部小児科教授のヴェルナー・カーテル(ドイツ語版)を訪問してきた[36]。依頼の内容は、その人物の子供かもしくは親戚の子供が重い障害を持っていて、将来生きていくことができないと思い、「安楽死」させてもらいたいというものだった[36][# 6]。もちろん、そのようなことは殺人罪につながるためカーテルは依頼を断ったが、この人物は今度はヒトラーに直訴した[36]。この嘆願を受けて、障害児の「安楽死」計画がただちに始まった[36]。

ヒトラーは自分の侍医だったカール・ブラント(親衛隊軍医)をライプツィヒに派遣してカーテルらと協議させる一方、精神障害や身体障害を持つ子供の「安楽死」の実施のためにブラントと総統官房長のフィリップ・ボウラーに対し、個別の案件について障害児を「安楽死」させるための権限を与えた[38]。権限は法律的な裏付けのない超法規的なものである[38]。ヒトラーは命令を書面ではなく口頭で行うことを好んだので、権限の委譲はこの時も口頭によるものである[38][39]。訴えを審議したボウラーとブラントは、その後の安楽死政策の中心人物となった[40]。

(中略)

T4作戦への批判が高まったことから1941年8月24日、ヒトラーは安楽死の中止を口頭で命令した[94][# 14]。この中止命令により、安楽死政策そのものは公式的に中止されたと公には受け取られたものの[95]、対象は6か所あった殺害精神病院での殺害の停止とガス殺の禁止だけだった[96]。更に、実際に障害者の殺害が中止されたのはハダマー殺害精神病院1か所だけで、ドイツ人の障害者はガス殺されなかったものの、残りの殺害精神病院ではユダヤ人の障害者を対象にしてその後も殺害し続けた[97]。ピルナ=ゾンネンシュタインおよびベルンベルク殺害精神病院のガス室が稼働停止するのは1943年春のことで、14f13作戦が中止になったのと同時期である[98]。ハルトハイム殺害精神病院の停止は更に遅く、1944年末までマウトハウゼン強制収容所の附属ガス室として稼働、それまで障害者を殺害し続けた[98]。


それ以外の精神病患者の収容施設では医師・看護師による患者の安楽死が国家の統制を比較的受けない形で続行されるばかりか増加し、「野生化した安楽死」と呼ばれた[99]。「野生化した安楽死」あるいは「野蛮な安楽死」という用語は、1946年のニュルンベルク医師裁判で裁かれたヴィクトール・ブラック(ドイツ語版)が最初に用いたと言われている[100]。ブラックはT4作戦で重要な役割を担っていたので、T4作戦後の「安楽死」を「野蛮」と呼ぶことで、T4作戦の重大性を軽く見せようとして用いたのだと言われている[100]。かつては「野蛮な安楽死」が普通に使われていたが、研究が進んだ1990年代になってからは、より実態に即した「地域の安楽死」「地域化した安楽死」「分散した安楽死」という言い方が使われるようになっている[100]。

また「作戦中止」後にT4作戦の職員はいわゆる絶滅収容所に配置され、かれらの伝えたガス殺・死体焼却・施設のカモフラージュに関する技術がホロコーストに利用された[99]。

1941年10月23日、内務大臣ヴィルヘルム・フリックは医療・養護施設の受託者として保険局参事官のヘルベルト・リンデンを任命し、安楽死組織が国家機関として位置づけられ始めた。リンデンの組織は各施設の収容者を登録し、T4の医師で構成された鑑定人を医療施設に巡回させた。1943年6月末からは傷病兵や空襲負傷者のための医療需要が増大し、そのための口減らしとして「治療しても仕方がない精神病患者」を殺害するブラント作戦(ドイツ語版)が始まり、医療施設から患者が大規模に移送された[101][102]。

また、「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、労働を嫌悪する労働忌避者、ジプシー(シンティ・ロマ人)、精神病質者などがその対象となった[103]。1942年9月18日にはオットー・ゲオルク・ティーラック法相がヒムラーと合意し、受刑中の「反社会的分子」は、「労働による毀滅」のため、親衛隊に引き渡されることが合意された。これにより、8年以上の刑を受けたドイツ人やチェコ人、予防拘禁者、3年以上の刑を受けた劣等人種とされた人々(ジプシー、ロシア人、ウクライナ人、ポーランド人)は法務省の判断で強制収容所に送られた。

ティーラックは1943年4月に、「犯罪を犯した精神病患者」も強制収容所に送るよう命令した。この対象には登校拒否児童、てんかん患者、脱走兵、労働忌避者が含まれている[104]。これらの囚人は労働に耐えられると判断されたうちは労務を強いられていたが、働けなくなった場合には安楽死が実行された。法務省への報告によると、1942年11月に強制収容所に送られた1万3000人の反社会的分子は、1943年4月の段階でほぼ半数がすでに死亡していた[104]。

参考:

731部隊将校の学位取り消しを求めるだけでは「偽善」・ヨーゼフ・メンゲレの研究の受益者 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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