新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #3

2024-05-29 19:51:38 | 旅行記

「帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #2」のつづきです。

平安時代貴族の屋敷といえば「寝殿造」です。
写真は、国立歴史民俗博物館で見た藤原道長の邸宅「東三条殿」の復元模型。

なんとも広大なお屋敷です。
なんでも2町(≒220m)四方だそうですから、二条城(東三条殿のすぐ西)二の丸御殿&庭園くらいの感じ。
もともと室町時代以前の建物が中心部にはあまり残っていない京都ですから、現存する寝殿造の建物は皆無だそうでですから、「平安時代の寝殿造の様式を再現した日本唯一の建造物」を標榜する「えさし藤原の郷」伽羅御所(きゃらのごしょ)貴重な存在です。

「伽羅御所」というのは、

奥州藤原氏の最盛期を築いた三代目・秀衡公の館を再現しました。
平安時代の寝殿造の様式で、寝殿を中心に東・北・西の対屋が渡殿(廊下)で結ばれ、家臣たちのいる侍廊、蔵人所・料理所・玄関にあたる中門あどとも繋がれています。寝殿は主人の住居であり、公的な行事の場でもありました。

だそうで、本物は平泉にあったのだそうな。

寝殿の正面にあるの向こうに、京都・宇治の平等院鳳凰堂(訪問記)とよく似たお堂のミニチュアみたいなのがありました。

どうしてここに平等院鳳凰堂が? と思ったら、

庭園の屋には、京都・宇治の平等院鳳凰堂を模して建立したと言われる無量光院が造られています。実際には400m離れた位置に建てられていたので、ここでは距離感をもたせて4分の1の大きさになっています。

ですって。
なるほど…
無量光院は、藤原氏三代秀衡によって建立された寺院で、宇治平等院鳳凰堂を模して建立された阿弥陀堂と、その周囲を取り巻く池を中心に伽藍が構成されていた」そうです。ただ、ご本家よりも大きかったらしい。
ただ、方角が違うような…

さてさて、寝殿造には棟と棟をつなぐ渡り廊下が必須ですが、廊下や橋がいい風情を漂わせていました。

そしてメインの寝殿には、知ってたけれど、壁が無い

京都の夏には涼しく良さげですが、平泉の冬寒いだろうに…

は、御簾几帳屏風(その名のとおり、元は風除けの調度品)で居住空間を囲んだそうですが、暖房器具といえば火鉢程度だろうし、蔀戸を下ろせば室内は真っ暗だろうし、部屋を閉め切れば一酸化炭素中毒の恐れもあるしなんとも辛い季節だったろうなと推察されます。

   

「東の対」では、藤原秀衡・泰衡親子と源義経とのご対面シーンが再現されていました。

秀衡公の背後の屏風は、内裏・紫宸殿(訪問記)を飾っている賢聖障子(けんじょうのしょうじ)(記事)を意識したものなのかな?
そして、お三方がお召し上がり中の食事を作る料理所も再現されていました。

当時の貴族の食事1日に2回だったそうで(相撲取りみたい)

米を主食に、副食は山菜やキノコ、魚介類、木の実、野菜類、キジやイノシシの干肉など。生ものは干したり、塩漬けや味噌漬けにして保存されました。調味料は四種器と呼ぶ酢・酒・塩・醤(ひしお:現在のもろみのこと)で、これらの食べ物をつけたり、かけたりして用いました。

とな。
そして、主食のは、

蒸した強飯(こわいい)、水で柔らかく炊いた姫飯(ひめいい)、それになどがありました。

だそうです。

それにしても、この伽羅御殿、もともと誰かのお屋敷だった建物をに手を入れてテーマパークとして公開しているのではなく、「新築したものなのに、作り込みが素晴らしい

東京・丸の内/大手町に何棟かある「旧建物の外観のイメージを残してみましたという姑息さ皆無で、本気度100%です
だからこそ、ドラマや映画のロケ地として重宝されているのでしょうねぇ

いやぁ、お見事 と唸りながら、伽羅御所をあとにしました。

で、あとになって判明したのは、寝殿を正面から撮った写真1枚も無かったこと
いやぁ~、失態です
まぁ、また行けばいいや とも思います。なにせ、別邸からならクルマで2時間で行けますから

【追記】きょう、NHK「いいね!光源氏くん し~ずん2」(録画してある)を視たら、第1回の冒頭(沙織の夢)が、ガッツリ「えさし藤原の郷」伽羅御殿でのロケ・シーンだった (2024/05/30 21:31) 

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