新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-1

2024-03-02 12:20:57 | 旅行記

「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #1-3」のつづき、新潟遠征 2日目のスタートです。

新潟2日目の朝は「目覚まし」に頼ることなく目覚め、カーテンを開けると、窓ガラスがびっしりと結露していました。結露した窓ガラスを見たのは久しぶりのような気がします。
本宅乾燥しまくりだし、別邸の寝室は結露する余地もないほど室温が下がりますからねぇ…
天気予報では、の見込みだそうで、気温は暖かくも寒くもないという、冬の新潟にしては、観光するのに悪くはなさそうです

でも、どこを巡る? どこに行く?
毎朝のルーティーン、アイスコーヒーを淹れて飲みながら、「新潟市観光 mini MAP」とにらめっこ。

考えがまとまらないまま朝食を摂りました。
コロナ禍のときは、定食のみだったり、ブカブカの手袋をしたりと、不自由だったホテルの朝食も、今ではすっかり「普通」に戻りました
このホテルの朝食は、副食は「3-」レベルでしたが、味噌汁は「4」ご飯は「4+」で、「魚沼産こしひかり」だというご飯が美味しかった

食後、部屋に戻ると、この日の行動の検討を再開
そして至った結論が、「ダイジェスト」で書いたように、

とりあえずバス白山公園前まで行き、そこから古くからの街を北東方向に、「新潟市観光 mini MAP」スマホのGoogleマップを頼りに、行き当たりばったりに歩いて、新潟市歴史博物館みなとぴあまで行くことにしました。

というものでした。

行動計画がある程度決まったところで、ホテルをチェックアウトして、まずは新潟駅まで行き、コインロッカーに荷物を入れて…のつもりだったのが、新潟駅のコインロッカーが少ない
いや、数は足りているのかもしれないけれど、設置場所が少ないのですよ。
私は万代口の東側から駅構内に入ったのですが、無い…
南口側をぐるっと廻って、ようやく見つけました。
私が見落としただけなのかと思って、さっき新潟駅の構内図を見たら、やはり2か所しか無い

今は駅舎の工事中だから少ないのか、はたまた、ずっとこの状態のままで行くのか、どちらなんでしょ

それはともかく、荷物をコインロッカーに入れて身軽になった私は、10:30発の観光循環バス(私が乗ったのは「What's Michael」号ではありませんでした)で出発

新潟駅前から、車内で流れる観光案内を聞きながら、10分強白山公園前に到着しました。

バス停の隣りといってもよい場所にある新潟県政記念館とは、3年ぶりの再会でしたが、やはりステキでした。

新潟県政記念館耐震改修工事のため、'22年12月から'28年3月末まで長期休館中
もっとも、3年前に、新潟県政記念館を外観・内部とも思う存分見学したことから(記事)、今回は予定にも入れていませんでした

さて、裁判所の角を右に曲がって西掘通に入りました。
この通りは、延々とお寺が続く「寺町」で、さっそくお寺の門前で気になるモノを見つけました。

これはアレではないか

聖獣大好き伊東忠太による本願寺伝導院(旧・真宗信徒生命保険)の周りを守る聖獣の一つだ (本願寺伝道院の訪問記)

ということは…
やはり、このお寺(本浄寺)浄土真宗本願寺派のお寺でした

そして、お隣の真浄寺さん(こちらは真宗大谷派)でも気になる建物がありました。
西堀寺町最古級に属するという本堂(1786年建立)もさることながら、その右手前の建物に注目

煉瓦造りの立方体の上に、本瓦葺き寄棟の屋根が乗っかっているこの建物は何??
正面から見ても、よく判りません
なお、真浄寺さんの梵鐘立派でした。

判らないまま、お隣の超願寺さん(真宗大谷派)の境内にお邪魔すると、ここにもありました

しかも、右から左へ「堂骨納」と書かれています。
そうかそうか、納骨堂だったのか…

   

ここまできて、気づいたことがあります。

それは、お寺も民家も、瓦葺きの建物が多いということです。
秋田辺りでは、凍害の懸念があり、かつ重い瓦葺きの建物は、最近こそ見かけるようになったとはいえ、ホントに少ないのです。
新潟市は、そのイメージに反して、積雪が少なく、それほど冷え込まないのかな? と疑問に思ったところ、こちらのサイトによると、1961-2001年の1~2月の平均積雪量は、2m超はザラ上越は別格として、長岡市でも80cm程度だというのに、新潟市30cm程度なんだ
この記事を書くまで知りませんでした

   

さて、寺町巡りの最後は、「名誉市民『會津八一』(秋艸道人)の墓と歌碑」があるという瑞光寺(曹洞宗)です。

會津八一は、本堂の前に、本堂と同じ方向を向いて立っていました(歌碑墓に向かって右側)

 width=

この場所は、境内の一等地だよねぇ。

會津八一の墓にお参りをしたあと、瑞光寺を出て、西堀通をちょっと歩いたところに、案内板がありました。

「400年の歴史を秘めた新潟の寺町」と題して、

永禄11年(1568年)の上杉謙信の書簡に、新潟という地名が出てきます。
これは、謙信にそむいた村上の本庄繁長を攻撃するため、謙信が部下に宛てて出した書簡です。
このことから、新潟という地名が一般に使われ、すでに交通の要地となっていたことが推測されます。
永禄11年頃すでに、善導寺、長善寺、宝亀院、不動院が開基し、次いで、元亀・天正年間に真浄寺、法音寺、長照寺、宗現寺、本覚寺が開基、その後、24の本寺と18の前寺・末寺が甍を並べるまでに至り、明治初年、西堀と町名改正になるまで、寺町と呼ばれ、しだれ柳の堀端に、新潟人の魂を守り続けてきました。

だそうです。
この案内板、最初に見たかった…。

というところで、寺町巡りはここまでにして、西堀通を横断して古町地区に入っていきました。
ここから先は、「#2-2」で書きます。

よし、きょうのブログ書きが終わった
有明に行く準備をしよ

【追記】諸般の事情により、「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征」シリーズは数日お休み します  (2024/03/03 11:39) 

つづき:2024/04/08 泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-2

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 泊まりがけは17年ぶりの新潟... | トップ | 「MISIA星空のライヴXII」の... »

コメントを投稿

旅行記」カテゴリの最新記事