飛鳥山公園の南側は「旧澁澤庭園」の名前のとおり、澁澤さん(渋沢栄一さん)の庭園跡です。というか、渋沢さんのお屋敷があった場所。
今でこそ当時の建物は晩香廬と青淵文庫しか残っていませんが、往時はどんな「縄張り」だったのでしょうか?
旧澁澤庭園の入口に掲げられた案内図を見ますと、
このように、北区飛鳥山博物館の一部まで含む広大な敷地に、広大なお屋敷を始めとして、いくつもの建物が建っていたことが判ります。
渋沢史料館でいただいたリーフレット「渋沢邸のいま・むかし」と、私が撮った写真で戦前の渋沢邸を偲んでみましょう。
このリーフレットの表紙は、渋沢邸の見取図と、号「青淵」の名札を下げた渋沢翁があしらわれています。
なんともお茶目に扱われている渋沢翁から伸びている吹き出しを転記しますと、
ようこそみなさん!渋沢栄一です。
ここは私が1879(明治12)年から別荘として、1901(明治34)年から本邸として利用した邸宅です。
「曖依村荘(あいいそんそう)」とよばれる私の邸宅は、8470坪の敷地を持ち、日本館と西洋館からなる本館をはじめ多くの建物がありました。
「曖依村荘」の建物の多くは1945(昭和20)年4月の空襲で焼失してしまいましたが、幸いにも元の姿を留めている建物もあります。
本館(西洋館)があったのはこの辺りでしょうか?
どんな豪勢な建物も、更地になってしまえばそれほど広く感じないものですが、リーフレットに載っていたジオラマの写真を見ると凄い
現物を見ることは叶いませんが、せめてジオラマの実物を見たいと思ってしまいます。
さて、庭園に点在していた建物の跡を追ってみましょう。
上の写真は、茶席に向かう入口「茶席門」の跡。
ここから(手前へ)入ると、まずお客さんを迎えるのはこんな「茶室待合」だったらしいのですが、
今は礎石が残るだけ。上の写真の右下に写っている石段がそのまま残っていました。
また、茶室「無心庵」も同じです。
残っているのは礎石と手水鉢だけ。
庭園の最南東部から見えたのは、
東京スカイツリーでした。
時間が絶え間なく流れていることをしみじみ感じました
つづき:2012/03/10 王子を歩き回った(その5)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます