浄土真宗には真俗二諦という考えがあります。
WikiDharmaの説明です。
http://urx.blue/IekU
中島岳志『親鸞と日本主義』に、真俗二諦についてこのように書かれてあります。
王法(天皇への絶対的帰依)が仏法(浄土真宗の信仰)と相反するとき、仏法に立って王法を否定すると、権力から弾圧を受けることになるので、真宗教団は日常の世俗レベルで王法を受け入れることで、仏法を守ってきた。
教団は国体の論理を俗諦(王法)として受け入れたが、真諦(仏法)を俗諦である国体より上位に置くことは、天皇の大御心よりも崇敬すべき存在を認めることになる。
文部省は真俗二諦論を問題視し、是正を求めた。
そこで、1941年2月13日、大谷派は真宗教学懇談会を開き、戦時体制にいかに対応すべきか、教学のあり方についての討議を行なった。
前にも書きましたが、大谷派の著名な先生方がトホホすぎるの発言をしています。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/6d4a2f7d267ca715f51b011a9fb9b108
座長の挨拶でこんなことを言ってます。
つまり、つまり時代に合わせて経典の解釈や教学の内容を変更しようということです。
真俗二諦に関係する先生方の発言をご紹介します。
曽我量深「死ぬときはみな仏になるのだ。国家のために死んだ人なら神となるのだ。神になるなら仏にもなれる。弥陀の本願と天皇の本願と一致してゐる」
竹中茂丸「どうしても宗門の上で阿弥陀と天皇と一緒にしなければならぬのか、それでなければ真宗は成り立たぬのか、別でもよいか、はつきり云つて欲しい」
金子大栄「阿弥陀の本願そのまま神の本願なり。(略)仏法は神の云ふことを仏が云つたと見てよい。(略)仏の御国が神の御国となることは間違ひない。(略)浄土の念仏がそのまま神の国への奉仕である」
曽我量深「教行信証の総序こそは教育勅語に対する仏教徒の領解である」
長谷得静「西派の人が文部省に行つたとき俗諦に就いての質問があつて、真諦即ち安心より流れるものが俗諦門であると説明したが、それならば二つ並べて書かなくてもよいのではないか(略)、といはれた。それで西派では真俗二諦を削除したといふ」
暁烏敏「今日のやうな時に王法を俗諦とすれば問題がある。仏法の教が大事か天皇の教が大事か、山﨑闇斎の話のやうに孔孟が日本をせめよせる話の通りで、今日では仏教に同様の問題が起つてゐる」
暁烏敏「皇法は大御心で、皇法のなかに仏道と臣道とがある。皇法は絶対でそのなかから仏法と臣道がある」
皇法とは王法のことです。
暁烏敏「職域奉公は臣道であるから、その意味では仏道即臣道である。皇道の中に臣民道と仏道とがあるといふが、仏道の中に臣道もあるでせう」
大須賀秀道「皇道を本とすべきか、真宗精神を本とすべきか(略)。皇道精神と真宗精神と一致で天皇に向へば皇道となり、仏に向へば真宗精神となることになれば簡単である」
津田賢「皇道精神と真宗精神の問題が出る。今は皇道精神でいかねばならぬ」
津田賢「吾々は指令あれば死力を尽してやる覚悟がある。宗門は単なる私的団体でなく、死を尽して国家に奉公する団体である」
木津無庵「金光教本部では、文部省との相違は私の方では元々丑寅の金神であつたが文部省に届けるとき天地金ノ神としたが、天地の金神は神社名簿にないからといふことでその結果月の大神、日の大御神、金の大神としたのであるといふ。教祖の御承知のない神が祭神となつてゐる」
木津無庵「天理教の祭神も最近宗教局の警告で、改めて目下教義の改造中である」
河崎顕了「真俗二諦は余り狭く説かれてゐたと思ふ。教育勅語を説く教へでなければならぬ」
木津無庵「石山合戦のとき、此の戦ひに参加するものは浄土往生すると証如上人がいはれたと云ふが、今日それが必要である。皆が安心して爆弾のもとに死ぬ覚悟を与へねばならぬ。(略)爆弾が落ちても安心できる。それは浄土往生が出来るとの信念である。(略)あやまれるものを正しくするのが聖戦である。それが仏行だ。されば此の戦ひに従事するものは菩薩行なり、此の菩薩行に参加するものが浄土往生してすぐ還相回向の働きをするものと思ふ」
金子大栄「仏教とか真宗とかの立場を捨てると、それは怪しからぬことと思ふが、元々仏教は立場を持たぬことと思ふ。(略)十年前は私も立場をもつてゐたため、皆さんに御迷惑をかけました」
10年前に迷惑をかけたというのは、1925年に『浄土の観念』の内容が異安心とされ、1928年に大谷大学教授を辞任したことだと思います。
金光教は、文部省が許可しなかったので、教祖の知らない神を祭神としたり、天理教は教義を変更しようとしたとは驚きです。
大谷派だって、さすがに本尊を変えることはしてませんが、似たり寄ったり。
どうしてこんなことになったのでしょうか。
東晋の時代(4世紀)、沙門不敬王者論といって、桓玄が沙門に帝王への拝礼を強要したのに対して、廬山慧遠は沙門は帝王に拝礼しなくてもよいと説きました。
慧遠のような僧侶がいないということかもしれません。