三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

植木雅俊『仏教、本当の教え』

2015年04月15日 | 仏教

植木雅俊『仏教、本当の教え』は教えられることが多々あります。
インドの言葉を漢字で音写する際には普段使わない字を借用した。
たとえば「仏陀」「釈迦」「涅槃」「菩薩」など。
仏典の漢訳のために、中国で漢字が造られた。
「魔」「獅子」「袈裟」「塔」など。
これは知りませんでした。

袈裟は糞掃衣と漢訳されている。
墓地に捨てられた死体をくるんでいた布を拾い集め、洗ってつなぎ合わせて衣にしたもので、死体の体液の染みで汚れて、黄赤色になっていた。
中村元氏の袈裟について書かれた文章が引用されています。

仏教では意識的に最下の階級であるチャンダーラと同じ境地に身を置いたらしい。仏教の修行僧は袈裟をまとっていたが、袈裟をまとうことは、古代インドではチャンダーラの習俗であったからである。


仏教用語が茶化されたり低俗化されたり、ふざけに使われたりしているとして、植木雅俊氏はこんな例を挙げています。
「右繞三匝」右回りに三べん回って合掌して敬礼するインドの挨拶の仕方。
仏塔は必ず右回りするし、ギリシャ正教にも取り入れられている。
しかし、日本では「三べん回ってワン」
「お釈迦になる」というと「台無しになる」「使い物にならなくなる」
たとえば「孔子になる」「毛沢東になる」という言葉が「壊れる」というような意味になることは考えられない。
「道楽」は「どうぎょう」と読めば「道(覚り)を求めようとする願い」、「どうらく」で「仏法の覚りの楽しみ」という意味。
しかし「道楽息子」というように、「酒色や博打にふけって身をもちくずした者」「怠け者」というふうに使われる。

仏教語は、「お釈迦」だけでなく、「お陀仏」「縁起が悪い」「立ち往生した」というようにいい意味としては使われないものが多いのですが、それは仏教=死と連想されたからでしょう。
それはわかるとして、「分別」「言語道断」「我慢」などのように、本来の意味とは全く逆の使われ方をしている仏教語が少なくないのはなぜでしょう。
森章司編『国語のなかの仏教語辞典』を見ると、「言語道断」は平安時代より、あまりにもすばらしくて言葉では表現し難いという意味と、あまりにもひどくて言葉では表現し難いという意味の両方に用いられたとあります。
「我慢」が忍耐という意味に使われるようになったのは近世後期とのこと。
キリスト教やイスラム教でも専門語が違った意味で使われることがあるのか、興味のあるところです。

コメント (5)
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