寺の役割は何かというと、まずは教えを伝えること。
そして、心情の安定ということがある。
死者への供養は真宗寺院ではしないというタテマエだが、しかし勤行することで家族が安心するなら、それはそれでいいのではないかと思う。
とはいっても、水子供養をほいほいとする気にはなれないけれども。
それと、情報の提供が大切だと最近感じている。
『「生きづらさ」について』で雨宮処凜氏は、「「死ぬ」というメールがきたときに、精神論で相談にのっても何の解決にもならないことを痛感しました。もちろん、話を聞くだけで自殺願望が収まることもあるんでしょうが、手もちのお金がぜんぜんないとか、家がないとか、明日借金の返済日でどうしてもお金がないという状況のときには本当に意味がない。「もやい」のような、ここに電話したらとりあえず生きられるという場所を知っているだけでぜんぜん違います」
雨宮処凛氏の言っていること、その通りだと思う。
悩み事に対して、なるほど、そうですか、それはつらいですね、と受容的、共感的態度で聞くことは大切ではあるが、場合によってはそれだけではだめだと思う。
たとえばお金がなくて、二、三日何も食べていない人にはパンが必要である。
空腹(悪い状態)から満腹(いい状態)に状態が変わることが、その人の救いとなる。
しかし、どうすればパンを手に入れることができるか、どこに相談したらいいのかわからない人のほうが多いと思う。
また、私にしても他の人の状態を変える力はない。
ニートの自立支援に関わっていた人の話だと、どういうことをしてるかというと、まずは居場所作りと相談、そして生活指導、職業訓練、就職支援などなどである。
具体的には、たとえば就労だと、どのようにして仕事を探すのか、履歴書の書き方から面接の仕方を教えるし、企業への働きかけもする。
こうしたことを行うのは、とてもじゃないけど個人ではそこまではできない。
だけど、その人の状態を変えることはできなくても、こういうところがありますよ、相談されたらいかがですか、という程度の情報を提供するぐらいは私でも可能である。
以前、子どもが学校に行きたがらないという相談を受けたことがある。
知り合いに不登校の親の会に関わっている人がいたので、その人に尋ねたら、あれこれと教えてもらった。
そんなふうに、いろんなつながりを作ることで、いろんな情報を提供できるようにしたいと思う。
腰が痛いと言う人に、○○病院がいいそうですよといった雑談も大切なことである。
そうすることが宗教的救いへつながっていけばいいのだけども。
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