諸富祥彦『人生に意味はあるか』で説かれている「人生の意味」とは、ニューエイジ・スピリチュアルの答えである。
ニューエイジ・スピリチュアルの主張をまとめてみましょう。
今の私とは違う「もう一つの私」があり、それが「本来の私」である。
そして、今のこの世界は「本当の世界」ではない。
だから、「本当の世界」「本当の自分」に目覚めなければならない。
諸富祥彦氏の考えを見てみましょう。
人生の意味や目的の問題は、「この世界」に主軸を置いて、そこからものごとを見たり感じたりする場合と、ある種の体験を経て、「この世界をその一部として含みつつも、それを超えた世界」に主軸を移し、そこに視座を置いてものごとを見る場合とでは、その答えがまったく異なってくる。
立脚点がシフトする、とは、「未知の世界」が「真の世界」であるとリアルにわかり、そこに身を置き、そこから「この世界」を見るようになる、ということです。
このように、諸富祥彦氏の考えはニューエイジそのものです
ニューエイジのもう一つの特徴は、個人が「霊的成長」することによって「人類の進化」が起こる、ということである。
諸富祥彦氏も同じことを言っている。
人生や世界を眺める立脚点のシフト(転換)についてお話ししていますが、これはものすごく重要なことです。個人の自己成長、内的成長、という観点から言っても、これが最大の分かれ目になるでしょう。大げさに言えば、人類が精神的にさらなる進歩を遂げることができるかどうかは、このシフトが人類規模で、同時発生的かつ集合的になされうるかどうかにかかっている、とさえ思います。
これはニューエイジ系の新宗教であるオウム真理教と同じ考えである。
そして、ニューエイジはすべてを心の問題として単純化し、社会の問題に目をつむってしまうのだが、諸富祥彦氏も同じ。
この世界のすべては、あの究極のリアリティ=「いのちのはたらき」そのものの顕現であることが実感されてきます。 あぁ、この世界は、ただこのままで、何と完璧なのでしょうか。 このとき、私たちは「生きる意味」を「味わって」いるのです。
世界では年に約1500万人、一日に約4万人が餓死している。
日本でも、一年間に餓死する人は40人以上、多い年は90人を超える。
虐待で殺される子供は年に数十人だが、その子供たちに「この世界は完璧」だと言えるのか。
こういう「ありがた教」は嫌いです。
諸富祥彦氏が自説を正しいと信じているのは、体験が真実だと思い込んでいるからである。
この「はたらき」は、私一人が発見したものではなく、多くの宗教家がそれに目覚めた人間存在の普遍的真理であったということです。 真理を追い求める行程はいずれどうしようもない行き詰まりにぶちあたります。この苦悩の極限において、自らの安定を図る自我が削り取られ朽ち果てて、「いのちのはたらき」に目覚める。そしてそれこそが真実の主体である、と知る。こうした目覚めの体験、覚醒体験が、洋の東西を問わず、さまざまな宗教の根源にあると思うのです。
体験することを諸富祥彦氏は強調する。
人生のほんとうの意味と目的。それはある状態においてだけ得ることができる「体験的な真理」なのです。
体験していない者は諸富祥彦氏の話を理解できないし、人生の意味が何かの答えに至ることができない。
一種のエリート主義である。
私には神秘主義にしか思えないのだが、諸富祥彦氏は否定する。
これは何も、霊的な体験でもなければ、神秘体験でもありません。七年も同じ状態にとどまり、人生の意味を問い続けたことによって、私の身体が変容を遂げていたのだろうと思います。
「身体が変容」という表現もすごい。
オウム真理教を脱会した元信者はこのように書いている。 y
神秘体験を「幻影」というのは簡単だが、本人にとってきわめてリアルな「体験」であり、現世こそが「幻影」とまで感じている。この「神秘体験」は、現在も残っている信者にとって、脱会しない、脱会できない最大の根拠となっている。(カナリアの会『オウムをやめた私たち』)
体験至上主義に陥ると、自分が体験したんだから間違いない、これこそが真理だと思い込み、聞く耳を持たなくなる。
しかし、体験なんていい加減なものである。
勘違いかもしれないし、夢を見ているにすぎないかもしれない。
それなのに、自分の体験を自分自身で解釈し、「これは真理だ」と断定する。
こういう思い込みや夢(妄想)から目覚めさせるのが仏教のはずである。