三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

キリスト教と寛容(2)

2019年07月14日 | キリスト教

 2.山内進『北の十字軍』
十字軍はエルサレムを奪還するための軍隊かと思ってたら、山内進『北の十字軍』によると、スペインへのレコンテキスタも十字軍だし、ヨーロッパ北方の異教徒への十字軍もあったそうです。

12世紀の神学者である聖ベルナールとローマ教皇エウゲニウス三世によって推進された十字軍は三方に分かれて出発した。
1 エルサレム(1145年)
聖地への巡礼を確保し、聖地を回復するため。

2 スペイン(1146年)
レコンテキスタ
この2つはどちらもイスラム教徒への攻撃。

3 スラブ民族のヴェンデ人(1147年)
現在のポーランド、バルト三国への十字軍。

異教徒を殺戮し、キリスト教世界を拡充することが熱狂的に同意された。
ベルナールは「異教徒たちが改宗するか、一掃されるか」を求めた。
キリスト教への改宗は、単に信仰の次元に限定されるものではなく、キリスト教的生活様式、法と文化を総体として受け入れることを意味した。

十字軍の理論的根拠となったのがベルナールの著作『新しい騎士たちを称えて』です。
キリストの騎士たちは、敵を殺すことで罪を犯すとか、自身の死によって危険がもたらされることを危惧することはなく、主のための戦いを安心して行うことができる。
なぜか。

キリストのために殺すか死ぬかすることは罪ではなく、最も名誉あることだからである。殺すのはキリストのためであり、死ぬのはキリストをうることである。キリストは、当然のこととしてかつ喜んで、敵を罰するために彼らの受け入れた。彼は、さらに快く、死した騎士の慰めに専心する。私はいいたい。キリストの騎士は恐れることなく殺し、さらに安んじて死ぬ、と。キリストのために殺し、キリストのために死ぬのであれば、ますます良い。キリストの騎士は理由もなく刀を帯びているのではない。彼は、悪行を罰し、善を誉め称えるための神の使いなのである。悪行者を殺害しても、彼はまさしく殺人者ではなく、もしそういえるとすれば、悪殺者である。

この考えは、一殺多生を唱え、敵を殺すことは菩薩行だと説いた仏教者と通じます。

1414~1418年のコンスタンツの公会議が開かれ、1410年にタンネンベルクで戦ったドイツ騎士修道会とポーランド・リトアニアがお互いの正当性を主張した。
そして、武力によって異教徒を征服し、改宗させることによって、キリスト教を拡大することはキリスト教の精神と合致するか、異教徒の権利はあるのかなどが問われた。

ドイツ騎士修道会のヴォルムディトの主張の骨子
1 異教徒に対する正戦論
騎士修道会が異教徒に対するキリスト教の擁護および布教の防護壁にして、出撃の砦だった。
2 このような騎士修道会に対する戦争は不法であり、反キリスト教的だ。

ポーランドのクラクフ大学学長のパウルス・ウラディミリの主張
14世紀のホスティエンシスという教会法学者の「キリストの生誕以来、すべての裁判権、統治権、名誉、所有権が異教徒からキリスト教徒へと移り、今日では、裁判権、支配権もしくは所有権といったものは異教徒の下には存在しない。キリスト教徒は神聖ローマ帝国を認めない異教徒たちを攻撃しなければならない。異教徒たちに対する戦争は、常に正当で合法である」という見解を、ウラディミリは「この主張は危険であり、公会議はこれを必ずやそう宣告しなければならない」と訴えた。

少々長いですが、ウラディミリの主張をご紹介します。
教皇権は「教会という囲いに属さない」「異教徒」にも及ぶ。キリスト教徒も異教徒もともに等しく保護される「羊」だ。

教皇は彼らを助けねばならず、「正当な原因が理性ある者たちに要求するのでない限り、彼らを攻撃してはならず、傷つけてもいけない」。なぜなら、「権利の生ずるところから不法(権利侵害)が生じてはならないからである」。 したがって、「キリスト教の君主たちは、正当原因がない限り、ユダヤ人やその他の異教徒たちを自己の支配地から追放してはならず、彼らから掠奪してはならない」。(略) たとえ神聖ローマ帝国の存在を認めようとしない異教徒がいたとしても、ただそのことを理由として、彼らから「支配権、所有権もしくは裁判権を奪うことは許されない」。彼らもまた神が創造されたものであり、「神の権威によって、罪なくしてそれらを有するからである」。(略) 異教徒に対して信仰を強制することも許されない。「異教の放棄は自由意思によらねばならない。この召命が効力を有するのは、神の恩寵によるしかないからである」。 それゆえ、「修道会に対してあたえられたという、異教徒の土地の征服を許可するローマ教皇の諸々の勅書」は、それが異教徒の土地に対する権利を一般的に否定するものであれば、「偽造」の疑いがこい。もし異教徒の権利がその勅書のために「合法的な理由なく」奪われるとすれば、それは「法そのものによって無効である」。

神聖ローマ帝国皇帝は、自己の帝国を認めない異教徒たちの土地を征服する許可をあたえることはできない。

「平和のうちに暮らす異教徒と戦う、あるいはむしろ彼らを攻撃するプロイセン騎士修道会は、決して正戦を実行してはいない。」 なぜなら、およそ法たるものは、「平和のうちに生活を送ろうと望んでいる者たちを攻撃する者たち」を認めないからである。(略) 「キリスト教徒による異教徒に対するそのような攻撃は、単に隣人愛に反するだけでなく、他人の物を非合法に奪うのであるから、それは窃盗であり、強盗である」。(略) しかも、「異教徒を武器もしくは圧迫によってキリスト教信仰へと強制することは、合法的ではない」。これは、隣人に対する不法であり、善を生み出すための悪でもない。

ウラディミリは、異教徒は実力によって奪われたものの返還をキリスト教徒の裁判所に対して請求することができるという見解に到達する。

「強奪されるか引き抜かれた物をキリスト教徒の裁判所に請求する異教徒に対して、正義が拒絶されてはならない。」

最後の総括で「キリスト教徒は罪を犯すことなく窃盗を行い、強盗することができるとか、領土を侵略し異教徒それもキリスト教徒と平和のうちに暮らそうと望んでいる異教徒の財産を侵害することができる」という結論は、「明らかに、すべての強奪と暴力を禁止している律法「盗んではならない」「殺してはならない」に反している。人類共同体の法が異教徒に対して許しあたえることは、一般に彼らに対して否定されてはならない」と述べています。
まことにもっともです。

15世紀になると、スペインやポルトガルがアフリカ・アジア、そしてアメリカを「発見」し、侵略するようになる。
十字軍の思想やイベリア半島のレコンキスタの延長線上に、アメリカ大陸やアフリカの征服・植民活動がある。
異教徒が住んでいる地域を攻撃し、支配し、キリスト教化するという思想は、アフリカとアメリカへのキリスト教世界の拡大のひな形を提供した。

16世紀のスペイン国際法学にとって、異教徒は支配権と財産権を有するか否か、キリスト教徒は彼らから正当かつ合法的に彼らの土地、財産、生命、自由を奪いうるか否かがもっとも重要な問題だった。
というのも、ローマ教皇の教勅は、異教徒の不動産を奪い、征服し、捕獲し、服従させ、「彼らの人格を永遠の隷属」の下におき、「改宗させる、完全かつ自由な権限」をポルトガルとスペインの王に授けたからである。

しかし、インノケンティウス4世(教皇)、トマス・アクィナス(神学者)、ラス・カサス(聖職者)、ウラディミリ、ビトリア(法学者)たちは、異教徒の権利を認め、異教徒も支配権と財産権を有し、異教徒ということだけを理由に、彼らを攻撃したり、生命、自由、財産を奪うことに反対した。

とはいえ、新世界での征服行動と支配の実態は容易には改善されず、バルト海沿岸地帯と同様に、異教徒の先住民に対して攻撃と征服、生命、自由、財産の掠奪が実行された。

異教徒を征服し、支配下に置くことが当然と思われていた時代でも、暴力による支配に反対する思想を生み出していることは忘れてはならないと思います。

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