生命主義のつづき
森岡正博氏はこう言っている。
「八〇年代の生命主義が展開したもうひとつの方向は、人間の「いのち」を、「癒し」の文脈のなかでとらえようというものでした。
〈社会がゆたかになっても、モノはあふれてきたけれど、人間のこころはちっともゆたかにならない。我々のこころは、この物質文明のなかで、疲れきっている。だから、疲れてズタズタになった我々の「こころ」と「いのち」を癒すことが、まず必要なんだ〉。
こういう訴えが、多くの人々、とくに都会に住む若者のこころをとらえました。
こころとからだの癒しを掲げるワークショップがたくさん開かれるようになります。
多種多様なグループ・セラピーや、気功法や、新々宗教のグループや、自己開発セミナーなどが街にあふれるようになります」
「こころ」論がアレレの展開。
やっぱり「いのち」や「こころ」をわざわざ平仮名にして乱用する人は要注意です。
ディープエコロジーと生命主義との違い
「ディープエコロジーの基本イメージは、やはり原生自然のなかで、野生動物たちと暮らす「森の生活」です。
これに対して、生命主義の中核にあるのは、「医」「食」「農」であり、人間の生と死です」
ヒッピーのコミューンはディープエコロジー的なのか。
沖縄に引っ越して、という映画が多いが、それもこの傾向があるのかもしれない。
生命主義は、現在の生活をまるっきり変えるのは大変だけど、有機栽培の野菜を買うとか、西洋医学ではなく民間療法で病気を治すとか、そういうことならやってみようという人には入りやすいと思う。
ディープエコロジーと生命主義の問題点
これらの思想が生み出す、甘く耳ざわりのよいスローガンを森岡正博氏は紹介している。
・自然と宇宙のリズムにあわせたコズミックなダンスをみんなが生き生きと踊るとき、世界は癒され、自然と人間は一体となる。
・ひとりひとりが真のからだとこころに目覚めるとき、我々は地球の声を聞き、大自然のささやきを全身でとらえることができるようになる。そこは、大調和とやすらぎの世界。
・いのちの声に耳をすまそう。私たちが見過ごしていたちいさな生命のひとつひとつが、大きな地球の生命のいぶきによって生き生きと生かされていることに気付くだろう。
つい「そうそう」とうなずいてしまいそう。
そういえば、宮沢賢治「農民芸術概論」の中に「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という言葉があって、ここだけなら菩薩の誓願とも言えるのだが、このあとに続く文章がちょっとなというものなんですね。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
あやしいでしょ。
宮沢賢治はニューエイジ的スローガンの元祖なのかもしれない。
森岡正博氏は、欲望と執着、闘争と排除の本能という生命の醜い面に関する思索が、ほとんどのディープエコロジーや生命主義の思想には貧弱だと指摘し、思考をストップさせた受け狙いの浅薄な思想を否定すべきだと訴える。
「ロマン主義を捨て去り、それが生み出す甘いスローガンの数々を否定し去り、そしてそのうえでなお「生命」や「自然」に立脚した思想を展開できるとき、ディープエコロジーや生命主義は、真の思想へと脱皮できるのです」
森岡正博氏が現在どのように考えているかは知らないが、ディープエコロジーや生命主義が「真の思想」になるかどうか、私は疑問である。
世界、自然、他人とのつながり(縁)に気づくことは大切ではあるが、それがどうしてニューエイジ・スピリチュアルや神秘主義や疑似科学と結びつくのかが問題で、そこらを考えないといけないと思う。
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体罰についても同様で、↓は橋下市長の体罰についての発言の変遷です。
http://mainichi.jp/graph/2013/01/15/20130115k0000m040129000c/001.html
体育科の入試中止発言も深く考えてのことではないと思います。
バスケットボール部顧問については、事件の究明がきちんとなされるべきだということは言うまでもありません。
ただし、顧問を糾弾するだけに終わるべきではありません。
体罰という名の暴力を生み出す社会の体質をも問題にすべきです。
勝利至上主義のクラブ活動という問題もあります。
体罰は指導という言い訳がされます。
児童虐待も「しつけだった」と弁解します。
イジメにしても「遊びだ」と思ってるようです。
これらを分ける明確な基準などありません。
いずれも強い者が弱者に加えるものであり、逆はありません。
日本では明治までは体罰はありませんでした。
体罰はヨーロッパの軍隊の方式を取り入れば明治の悪しき習慣です。
過去のコメント見ましたが、どうやら橋下市長と体罰が嫌いなんだねぇ…
では、その嫌いなモノが二つ、相反する立場だとどうなりますか?
ニュースでも出てましたが、大阪市立桜宮高校体育科とスポーツ科の今年の入試を中止するよう教育委員会に要請する、とのこと。橋下市長の決断だ。
ちなみに俺は体罰肯定派だ。
しかし、今回の事件は体罰ではない。体罰の名を借りた、傷害事件の末の自殺だ。3~40発ぐらい殴られたそうだ。しかも、試合に負け、自殺した生徒がキャプテンという理由で。不祥事(違法行為)をした、という理由ではない。
ちなみにこの学校のOBと保護者は全面的に擁護していた。俺からすれば狂ってるとしか思えない。
あなたは体罰とかが嫌いなそうですが、この教師は当然糾弾すべきだと思いますがどうでしょうか?
その事件を受け、橋下市長は本年度の体育科とスポーツ科の入試を中止すべき、としたことについてどう思いますか?
ちなみに、私見だが、怒られるかも知れないが、俺は入試中止以前に警察を入れ、国からも調査の上、文科省(国)の判断でこの学校の体育科やスポーツ科の即廃止(取り潰し)が妥当だと思いますわ。
長々と失礼しました。
新しき村は今も13人、10世帯が生活しているんですね。
理念を読みますと、何だかヤマギシ村みたい。
キルバーン一族が何者か、これまた知りません。
アメリカのユートピア運動については河上肇『貧乏物語』に紹介されていました。
>jykさん
佐賀枝先生のお話を聞いたのは15年も前のことです。
早いものです。
今でもご門徒のみなさんが思慕されていることを尊く思います。
文面を読み、あのことも、このことも全部話されたのだと先生の心には、伝えなけねばならないと必死に門徒に話していたのだと改めて、感涙して何度も何度も読み耽っているのです 本当にありがとうございました
今後のご活躍をご祈念します
架空境界を探しては、喪失するの繰り返をしてるのでしょうか?
そこにいくと、戦争までは、彼と友人関係だった周作人は、遊び心もあるような人ですが、現実的な考えを持っていたみたいです。これが、国民性の違いなのでしょうねぇ。
先日コメントした『偉大なるMC』の本の6本指の人たちは、一方では、魔法使いと言われて差別され、また、一方では、理想主義的な農業経営をしてる菜食主義者の集まりと捉えられていた、キルバーン一族がモデルのようです。