江戸時代の農民はとにかく貧しく、いつも飢えていて、一揆ばかりしていたというイメージがありますが、佐藤常雄、大石慎三郎『貧農史観を見直す 新書・江戸時代〈3〉』には、実際はそうではなかった、ということが書かれています。
へえ、そうなんか、と思っていたのですが、『日本残酷物語』を読むと、貧農史観で正しいじゃないかと感じました。
もっとも貧しいかどうかというのはどこに基準をおくかですが、粗末な食事で長時間の重労働、そして収入はわずか、となると、やっぱり貧しかった。
江戸時代には自作農が主で、小作農は少なかったが、明治になり、地租を払うお金がないので、土地を売る者が増え、大地主が誕生した、とどこかで読んだことがあります。
となると、明治以前の日本は貧しかったが、次第に豊かになった、ということは間違いで、高度成長時代までは貧しい人はとにかく貧しかった、ということなんでしょう。
『日本残酷物語』は昭和34年の発行ですが、この時点でも決して豊かとは言えない人たちが普通にいたことが書かれているわけですから。
これは戦時中の話です。
第二次世界大戦中国民精神作興のためとのふれこみで、日をきめて梅干入りの握りメシでがんばろうという指令が中央から流されて来たときに、怒ったのはこの地方の人々であった。
「おれたちにそんなぜいたくなまねはできない。そんなぜいたくなことを耐乏生活と考えている政治家の顔が見たい」
「おれたちにそんなぜいたくなまねはできない。そんなぜいたくなことを耐乏生活と考えている政治家の顔が見たい」
この地方では、米のメシなど食べることなどなかったので、母親は米を満足に炊けることすらできなかったそうです。
貧しい人がいることによって豊かな人が存在するわけですが、『ホテル・ルワンダ』や『ナイロビの蜂』といったアフリカを舞台とした映画を見ると、アフリカの貧しさによって豊かな国がよりいっそう富むということがわかります。
たまに親の里帰りで戻る九州のご飯の味はあまりに
東京と違い、ご飯時間が憂鬱になるぐらいでした。。。
時たま自作のお米を送ってくれたのですが、どう炊いても
美味しくなかったので最後はお粥でいただきました。。。
それからだいぶ経ったある日。。。
瑞穂の国のはずが泰国からお米を仕入れました。。。
皆まずいまずいと罵り、米屋の店先に捨てたり、
国営放送まで「美味しく炊くコツ」なんて番組を
やってました。
その頃の瑞穂の国は亜細亜諸国の憧れで、もちろん
泰国からも留学生や就学生がたくさんいました。。。
みんな悲しそうな顔をして、、、
「タイの食べ方で炊けば美味しいのに・・・」
そんな傲慢の罰なのか、今は瑞穂の国に行くくらいなら
米国(美国)に行く留学生が大半で、瑞穂の国に来る人は
労働者ばかりで勉強に来る方は減ったようです。。。
お米の味。自分の知ってる味。祖国の味。ふるさとの味。
たまに誰かにネジを回してもらわないと、みんなドッカが
可笑しくなっちゃうみたいですね。
有難うございました。
だったら広島の米はどうでしょうか。
貧しさ(苦)の中でどう生きるかは今までいろいろと説かれてきましたが、豊かさ(楽)の中でどう生きるかを説かれたことはこれまでなかったように思います。
飽食の日本人はそれを自分たちで探していかないといけないわけですよ。
贅沢な悩みかもしれませんが。
そのころはお米の規制が多々あったようで、
地域で育てるお米の種類にも決まりがあり、
東京で食べてるものとだいぶ違ったんです。
なんで美味しくないお米を作ってるのか
不思議でしたが、考えると贅沢な話。
今はお米も自由流通で、どこでもササニシキ
とかが食べられますね。でも、美味しくなった
はずなのに米の消費量は激減だし。。
結局米牛肉の輸入も再開するようだし、
日本の食料政策って行き当たりばったり
みたいですねぇ。。。
牛肉に関してはさすがに怖いので、
当面何処産だろうと食べないようにするしか
無いでしょう。
お金はあっても「食べれる物」が無い。。。
「おかずのおかず」
というのがありました。
ご飯は主食じゃなくて、付け合わせということですね。
昔は米を食べることがごちそうだったのに。
どの国も食糧の自給率を上げようとしてますが、日本の場合、アメリカの顔色をうかがうほうが大切なようです。
と言いつつ、私も牛肉怖いですけど、パクパク食べてます。