私は話をすることがあると、話した後はいつも自己嫌悪に陥る。
話がとにかく下手なもんでねえ。
理屈っぽい話をダラダラと単調に話されたら、聞くほうとしては苦痛だろうと思うわけです。
トシ・カザマというアメリカ在住の写真家がいて、この人は10代の死刑囚の写真を撮っている。
カザマさんはスライドを見ながら、この死刑囚がどういう人で、どういうことをして、どういう会話をして、ということを話されるわけです。
重たい話だが、引きつけられる。
そして、絶妙の間。
話の間にある沈黙は、死刑囚との会見を思い出し、彼らの抱えているものの重さに耐え難くなって絶句したのか、と思わせる。
その沈黙の時間があるから、ただでさえ重たい話がズシーンと響いてくる。
ところがですね、この沈黙はそういうことじゃないと、某氏から聞いた。
カザマさんは町を歩いていて、突然暴行を受け、数日間意識がない状態だったという、そんなことがあって、その障害が残っているために、話をすると身体がしんどくなるので、続けて話すことができないということなんだそうだ。
死刑囚のことを思って話すのがつらくなるとか、あるいは計算したものではないわけです。
手品の種明かしをされたような感じだが、しかしだからといってカザマさんの話の素晴らしさに変わりはない。
私が真似をして間を置いたら、何を話すか忘れてしまったと勘違いされるだけのような気がする。
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今なら、(沈黙)とか「…」とかするところでしょうか。
『観経』では釈尊の沈黙を言いますし、拈華微笑も間がありますね。
仏教では沈黙の時間を重視したわけなんでしょう。
しかし現代は、法話でも、(笑)はあっても、(沈黙)と書くことはないですね。
禅問答というと、わかったようなわからないようなやりとり、ということになりますが、禅宗の方のお話は明快です。
真宗は聞法と言いながら、わけのわからない話が多い。
もっとも、私も頭が悪いせいかもしれませんが・・・
「良久」ですが、これは文章である『正法眼蔵』には登場しません。あくまで語録に登場するのです。それは、『道元和尚広録』であれば、編集した懐弉禅師が、実際に道元禅師が間を置いたときに「良久」とか「良久曰」などと書き残しているのです。
なお、読み方ですが「りょうきゅう」「りょうきゅうしていわく」と読んでおります。意味は「しばし無言の間を置かれてから言われた」となります。
それから、禅宗の坊さんが話が上手い件についてですが、人それぞれだと思いますけど、坐禅という言葉ならざる所を知っているが故に、より言葉の用い方が巧みなのかもしれません。つまり、習慣的な言語使用を自ら修正することが出来るといえば分かりやすいでしょうか。もちろん、当人はそんな自覚無く行っていると思います。
「良久」ですか。
どういう読みなんでしょうね。
禅では「不立文字」とか「以心伝心」とか言いますが、禅僧には話の上手な方、文章の巧みな方が多いですね。
私が行っている坐禅会の和尚さんも話がうまい。
皆さん、坐禅よりも和尚さんとの会話が楽しみなんじゃないかと思うほどです。
ところが私なんてねえ・・・
ヽ(´・`)ノ ふー
久々にコメントさせていただきます。
禅門では、上堂と言う5日に一度、道場の住持が修行僧を前に説法することが行われましたが、日本に初めて上堂の形式を輸入した道元禅師は、その説法が語録として『道元和尚広録』になっております。
その中に、多くの場所で「良久」という言葉が見えます。これは、説法のクライマックスで一時的に沈黙というか間を置いたと言われています。やはり、特に相手に伝えたいことを際立たせるためにも、その直前の間というのは必要なことだと思います。ただ、拙僧も下手なので困っているのですが。。。