伊藤真『憲法のことが面白いほどわかる本』に、次のような問いが書かれている。
個人の尊重という考え方が憲法の根本でもある。それはすばらしいことなのですが、実は反面とても厳しいものでもあります。
たとえば、100人の凶悪犯が逮捕されて裁判にかけられました。その中の99人は殺人や強盗などの凶悪犯人で、死刑判決が出そうな犯罪者です。ところが一人だけ、無実の人が間違って紛れ込んでしまいました。100人のうち一人は無罪なのですが、それが誰なのかはわかりません。そこで、裁判官としては全員を無罪にするか、有罪にするしかないことになりました。さて、あなたが裁判官だったら、どうしますか。
一人を救うために全員に無罪判決を下すと、社会に凶悪犯人が堂々と戻ってくることになります。社会を救うために全員有罪とすると、一人の人間が犠牲になります。
たとえば、100人の凶悪犯が逮捕されて裁判にかけられました。その中の99人は殺人や強盗などの凶悪犯人で、死刑判決が出そうな犯罪者です。ところが一人だけ、無実の人が間違って紛れ込んでしまいました。100人のうち一人は無罪なのですが、それが誰なのかはわかりません。そこで、裁判官としては全員を無罪にするか、有罪にするしかないことになりました。さて、あなたが裁判官だったら、どうしますか。
一人を救うために全員に無罪判決を下すと、社会に凶悪犯人が堂々と戻ってくることになります。社会を救うために全員有罪とすると、一人の人間が犠牲になります。
うーん、これは難問です。
それでは、伊藤真はどう答えているか。
個人の尊重を根本とする憲法は、「どんなことがあっても、社会のために個人が犠牲になってはならない」という価値観に立っています。したがって、社会はその一人の個人を尊重するために、凶悪犯人と暮らすという痛みを負担しなければなりません。
これは厳しい。
個人の権利ばかり主張してたらこんなことになる、今の憲法なんて改正してしまえ、という意見が聞こえそうです。
死刑反対の理由の一つが冤罪ということ。
だったら、罪を認めている人は死刑でもいいじゃないか、ということになるが、そう簡単にはいかない。
人を殺したといっても、殺人・傷害致死・過失致死とでは量刑が違う。
従犯なのに主犯にされたり、たまたまその現場にいただけなのに殺人にとわれることもある。
じゃ、罪を認めていない人の場合はどうなのか。
罪を認めていない人には、嘘をついている人と、本当に無実の人がいる。
たとえば、和歌山毒入りカレー事件の林真須美被告。
林真須美被告には有罪となる直接証拠はなく、すべて状況証拠だという。
ひょっとしたら、林真須美被告は無実の人かもしれません。
ところが、状況証拠だけで死刑の判決が下りた。
これは初めてのことだそうです。
林真須美被告が無実かどうかはわかりませんが、「疑わしきは罰せず」という原則から言うと、無罪になるべき。
個人の命を尊重するよりも社会の秩序を優先するなら、さらに言うと厳罰化の流れの中では、冤罪の可能性が増えることは間違いない。
私もいらぬことは書かぬよう慎みます。
うーん。フリッツ・パールズよりイケてた。。。
以下、被告の精神鑑定人でもない私の越権行為ですが。。。
人のココロのアヤというのは、果たして二元論で片付くのでしょうか。グラデーションのような具合に染められているということはないのでしょうか。殺意は(ある/ない)で片付くのかどうか。
欲望にも(ある/ない)だけでなく、スキあらば。。。とかあわよくば。。。ということもあるのではないでしょうか。
円さんは以前、となりの房にいた小説家志望の服役囚にうかうかと乗せられて「手紙」を書いてしまったといわれてましたが。
同じように、検察のストーリーにまんまとはめられて一審、二審で起訴事実を認めた。。。というのなら。今回の被告人の証言について、自分の意見に耳を傾けてくれるはじめての人に出会ってやっと自分の胸襟を開いてモノを言ったという可能性も考えられますが。
弁護士など、接見した人が受け取る被告人への印象。。。「精神的に幼い」という意見に依っかかって、記憶をたぐりよせたという可能性も考えられるのではないでしょうか。
また被告人の証言の中に出てきた、魔法。私なんかも時折り、変えられない現実を白昼夢みたいなので紛らわしたりなんかしますが。日常的に信じていれば、これも広い意味での立派なスピリチュアルですね。
被告人に接見している牧師さんが語るイエス・キリストが、彼にとって新たな「ドラえもん」にならなければいいのですが。
事件はやっぱり藪の中。私の手の届く範囲にはないなあと思いました。もはや、私がこの事件に関して言うべきことはないです。
「安心して○○できる人生」
これは使えますね。
「安心して恥をかける人生」
「安心して失敗できる人生」
「安心して愚痴が言える人生」
http://bethel-net.jp/bethelna-n.html
「安心して絶望できる人生」
無力どころか、かえってマイナスなことばかりをしてしまいます。
で、ますます無力さに落ち込んでしまう。
そういう時に、別の道が開けているドアを誰かが教えてくれたら、ちょっと楽になるんですけどね。
べてるの家はいろんなドアが開いているんでしょうか。
別の道だって行き詰まりかもしれませんけど。
ですからべてるのような↓のような人々にあらわれる
http://bethel-net.jp/tojisha1.html
幻聴や幻覚を、「デムパ」といって正常な自分とは違う世界に住む頭のおかしい人の感知するものと考えなくてもいいということがよくよくうなづけました。
昨夜、あるお医者さんグループのミーティングに出席しましたが、そこでのお話し。
「精神を病む人がしゃべる奇妙奇天烈な話は、それでも日本語でしゃべってる。それは、その人が今までの人生でつらいこと、しんどいことに出会って世界がメチャメチャに感じられたという表現なんやなあとわかりました」
>私も裁判官ではないです。
ネットでは裁判官になって裁いている人が多いですね。
藤井氏は復讐の肯定と厳罰化が被害者の利益になるという考えのようです。
しかし、被害者のすべてが復讐をしたいと考えているわけではありません。
http://ruhiginoue.exblog.jp/5546176
修復的司法の考え方は重要だと思います。
>京都8月2日
>「死刑」というのは、中世まで「祭り」の意味合いが強かったそうです。
死刑は公開だったし、死刑執行を見物しやすい家では、金を取って見物させていたそうです。
人間の持つ暴力性を死刑という祭りで発散させていたのでしょうか。
だとすると、200~300年前に近代法学ができるまで、「祭り」の意味合いの「死刑」の歴史が長かった訳ですから、近代法制の中で生きている現在も、人間の中に「祭りの意味合いの死刑」という意識が残っているのかなと思います。
が、見るもの見るもの、すべてといっていい番組が被告への否定的コメントだらけですね。なるほど私の直観も被告の側の証言が、圧倒的に分が悪いと判断しましたし、誰が見ても聞いても被害に遭ったお母さんとお子さんを気の毒に思うでしょう。
>だけど、裁判じゃそうはいきませんからね。
しかし、テレビも新聞も裁判所ではないでしょう。そして当たり前のことですが、私も裁判官ではないです。また、事件の加害の当事者でもなければ、被害の当事者でもない私。
「こんなの死刑に決まってるじゃないか」という判断と「殺人ではなくて、傷害致死である(かもしれない)」というふたつの判断。私にとっては、この二つのいずれかであることを最終的に決する必然性はあまりなく、二つの考え方が対立する理由、根拠は何かの方が気になるのです。
週刊金曜日で、森達也さんと藤井誠二さんの対談があったようですが、その批評。これはその意味で興味深い文章でした。
http://d.hatena.ne.jp/lelele/20070517/1179344042
ネットではそれが顕著ですね。
相手の表情や仕草、場の雰囲気がないネットは文字だけの世界ですが、それでは通じ合えないという気がします。
>「本当はどちらが正しいか」と問うな。それでは必ず主観どうしの対立になる。そうではなくて、そのように二つの違った考え方が対立する理由、根拠はなにかと考えてみよ。
それは面白い。
背景を考えることは重要ですね。
だけど、裁判じゃそうはいきませんからね。
どっちが正しいか、ということになる。
また光市の裁判ですが、8年前のことで、その時に何を考えていたかなんて言われても、覚えていないのが当たり前だと思います。
おそらく被告は頭の中が真っ白だっただろうし。
ま、計画的だったら、もっとましな言いわけを警察の取り調べの時に言うでしょうから、かえって真実かなとも思います。
しかし富山の冤罪事件だって、裁判では否認しませんでした。
疑いの眼で物事を見ると、何でもおかしく思えるのはどうしようもないことですね。
http://www.pippo-jp.com/runde/spot/y03/kon-nyaku.html
二者間ではこんにゃく問答ですが、複数の人々のコミュニケーションは「藪の中」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%AA%E3%81%AE%E4%B8%AD
誰かと話しが通じているようんで、あわなくなってくるという経験もあるし、けれど話しが通じる相手もいる。これはどういうことか。で、やっぱり西研さんと竹田さんのお話。「確信成立の条件」の「発明」~ 信念対立の図式を超えて……」は面白かったですね。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/inuhashi/gennsyo/kinentai.htm
>たとえば、「わたしは世の中についてこう思う」というのは、自分だけで考えている限りはあくまでも自分自身の考えにすぎない。だけど横にもう一人いて「俺もそう思うよ」と言ってくれると、その二人の間である「現実」が成立することになる。「現実」とは「客観それ自身」のことではない。考え方の共通性が成立したときに“人間の間”に成立するものなんですね。
>ところで、。。。そこに「それは違う。我々はかく考える」という別の一団(共同体)が現われてくるとします。このときたいていは、「どちらが正しいか」と考えますね。
>このとき、現象学はそのように考えることを禁じ手にする。「本当はどちらが正しいか」と問うな。それでは必ず主観どうしの対立になる。そうではなくて、そのように二つの違った考え方が対立する理由、根拠はなにかと考えてみよ。
>わたしがこれを「現実」だと信じていることにはある条件がある。彼らがまた違う現実を思い描いていることにも、同じように条件がある。その条件をよく理解することができれば、そこから共通了解を取り出しうる可能性が生じる。
これは、犯罪捜査の取調べだけでなく、職場や家庭といった日常生活でもありますね。
現実に、疑う側は根拠が無くても「疑い」→「確信」という気持ちになった時がヤッカイです。
「でっちあげ」というのは、でっちあげるという意識があって、逆に「疑い」を晴らしやすいのですが、根拠なき「確信」は、「事実」だと思いこんでますから。
コメントありがとうございます。
> 99人の凶悪犯を野放しにするってことなんですね。
これはたとえですからね、憲法の理念にしたがっていたら、巷に凶悪犯があふれるというわけじゃないですよ。
> 民事も勝ったのですが、未だに慰謝料を払ってくれません。
> どうしたらよいのでしょう?
うーん、どうしたらいいんでしょうか。
慰謝料を払ってくれるように訴訟を起こすべき何でしょうか。
>tenjin95さん
ネットは調べものをする時には本当に便利です。
本だったら、どこに書かれてあるか調べるのが一苦労ですが、ネットだったら、検索すればラクチンにできますからね。
『法窓夜話』web版の情報をご教授下さいまして、ありがとうございます。早速参照し、今後引用するとき楽だなぁ、と独りごちました。
手元には原典もありますので、とりあえず引用をするときでも、あまり気兼ねなく引けそうです。
よく伊藤センセの本を読んでいるようなのですが、
そうなのですか、
99人の凶悪犯を野放しにするってことなんですね。
私も裁判沙汰を経験したことがあります。
ちなみに、相手は初犯にもかかわらず実刑がおりた極めて厳しい判決がおりました。
刑事です。
民事も勝ったのですが、未だに慰謝料を払ってくれません。
どうしたらよいのでしょう?
感心しまして、ネットで検索しますと、『法窓夜話』はネットで読めることに驚きました。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/t-shinya/yowaindx.html
「法諺」を読むと、使えそうな名言が満載でした。
イギリスという国は、本当にユーモアの効いたことわざが多く、法律に関するモノも多数ありますが、今回、管理人様が仰ったことに関するようなこともございます。なお、出典は穂積陳重博士『法窓夜話』(岩波文庫)です。
一人の冤罪者をあらんよりは十人の逃罪者あらしめよ(イギリス)361頁
続いては、W杯で盛り上がるドイツです。
法多ければ賊多し(ドイツ)357頁
ということで、人がやってきたことは、古来から大して変わりないみたいですね。