三日坊主日記

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慈悲と善巧方便にもとづく殺生(3)

2021年10月07日 | 仏教

藤田光寛「〈菩薩地戒品〉に説かれる「殺生」について」は『瑜伽師地論』「菩薩地戒品」に説かれる殺生肯定論ついて論じています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1995/191/1995_191_L152/_pdf

古代インドにおいて、不殺生 (ahimsa) という教えは、ジャイナ教、 バラモン教などに共通してみられ一般的倫理だった。
インド仏教においても、初期の時代から不殺生が仏教の基本的立場だった。
比丘の具足戒において、波羅夷法(これを犯せば僧伽から永久追放)の断人命戒では人を殺すこと、他の人に教唆して人を殺させることが禁止され、さらに自殺や安楽死も否定されている。

波逸提法(これを犯せば比丘の前で懺悔しなければならない)では、掘地戒(大地に生命があると世間では信じられているので、自分の手で大地を掘ったり、他の人に指示して大地を掘らせてはならない)、伐草木戒(植物に生命がやどるので、自分で草木、樹木を伐ったり、他の人に伐らせてはならない)、用虫水戒(虫が死ぬから、水の中に虫があるのを知りながらその水を用いたり、泥や草の上にその水をそそいではならない)、奪畜生命戒(殺そうという意志をもって動物を殺してはならない)、飲虫水戒(水の中に虫があるのを知りながらその水を飲んではならない) などがあり、人のみならず、動物や植物などあらゆる生き物を殺してはならないとしている。

在家者は五戒を保つのであるが、その第一が不殺生戒である。
ところが、インド仏教の基本的な倫理である不殺生に反すると思われる記述が大乗仏教経典に見られる。

「戒品」には、在家の菩薩が有情に対する憐愍(思いやり) の心をもち、利他のための善巧方便として行なうならば、性罪を犯しても許容されるとする記述がある。
性罪(しょうざい) とは、仏陀によって禁止されているか否かに関係なく、殺生などのように本質的に罪悪である悪行為です。

すなわち、十善戒のうち、①不殺生、②不偸盗、③不邪淫、④不妄語、⑤不両舌、⑥不悪口、⑦不綺語は一定の要件においてであれば犯しても罪にならないとする。
もっとも、出家の菩薩には①~⑦のいずれかを犯すことも許容されない。
この場合の「在家の菩薩」とは、世俗社会においてさとりを求めて修行する大乗の仏教者の在家者であれば誰でもというのではない。

不殺生に関して「戒品」に次のように説かれている。

多くの[五]無間業の行為をなした強盗や窃盗が、多くの生き物、如来、声聞・独覚・菩薩たちを少しの財物を欲しいために殺そうとしている。それを見た菩薩は次のように考える。〝たとえ私がこの強盗や窃盗の命を奪って地獄に再生するであろうとも、私は喜んで地獄に再生したい。この有情が無間業をなして地獄におちることなかれ〟と。菩薩はこのような意向をもって、自分のこの意向が善なる心、または無記の心 であると知り、[他の方法がないので]恥じつつも、本来のこの有情(強盗、窃盗)に対する哀愍の心をもって(この有情にとって本来において利益となることを考えて) この人を殺す場合、違犯のある者にならず、かえって多くの福徳が生じる。

望月信亨『仏教大辞典』に「古来、一殺多生の説と称せらるゝ所なり」とある個所です。

「戒品」に説かれる戒律観は、インド中期密教(7世紀頃) の経典にもみられる。

『大日経』「受方便学処品」に説かれる十善戒の解説の中において、その第一の不奪生命戒では、その人の悪業の報いという苦しみから解脱させるために、自分で罪悪なることを受け入れて、恨みの心はなく大悲の心をもって殺すことが方便行として認められている。

ブッダグフヤ『大日経広釈』では、「受方便学処品」の解説に、「戒品」に依拠して般若と善巧方便をもった在家の菩薩が利他のために、時には十の不善なることを行なっても許されるが、出家の菩薩には許されないと説く。

『理趣経』「降伏の法門」でも、「もしこの般若波羅蜜多の理趣を聞いて受持し読諦し[修習するなどの十法行を]なすならば、[その人はすべての煩悩を既に]調伏することになるから、たとい三界の一切の有情を害しても、悪趣に堕せず、速やかに無上正等菩提を得ることができる」とある。

『初会の金剛頂経』「降三世品」に「一切の有情の利益のために、仏陀の教説の故に、もし一切の有情を殺しても、彼は罪悪に汚染されない」という記述がある。

このような考えはインド後期密教 (約8~12世紀) においてさらに展開する。

メナンドロス1世(紀元前2世紀)とナーガセーナとの対話である『ミリンダ王の問い』にも殺人を肯定している個所があります。

デーヴァダッタがサンガを破壊し、そのことで一劫のあいだ地獄で苦しみを受けることを釈尊は知っていたのに、なぜ出家を許したのかと、ミリンダ王がナーガセーナに問います。

「デーヴァダッタが業の上に業をつみかさねて、一兆劫の間、地獄から地獄へ、破滅の所から破滅の所へと行くのを見られたのです。善き師は全てを知る智慧によって、「かれの無限の業は、わが教えの下で出家したならば終りをつげるであろう。前生〈につくった業〉に基づく苦しみは、終りをつげるであろう。だが、出家したとしても、この愚かな人間は一劫の間、〈苦しみをうける〉業をなすであろう」と知って、デーヴァダッタを出家させたのです」
「尊者ナーガセーナよ、しからば、ブッダは〈初めに人を〉打ったのちに、〈傷に〉油を塗る。崖に落としたのちに、〈救いの〉手をさしのべる。殺したのちに、蘇生を求める。すなわち、ブッダは初めに苦しみを人にあたえ、そののちに楽しみを付与してやるのですね」
「大王よ、如来は人々の利益のために〈かれらを〉打ち、人々の利益のために〈かれらを〉落とし、人々の利益のために〈かれらを〉を殺すこともするのです。大王よ、如来は人々を打ったのちにかれらに利益を付与し、落としたのちにも人々に利益を付与し、殺したのちにも人々に利益を付与するのです」

かなり古くから、救済や教化のための殺生を正当化していたようです。

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