岡野潔「釈尊が前世で犯した殺人 大乗方便経によるその解釈」によると、釈尊が前世で盗賊を殺した話は、小乗の経典と『大乗方便経』では大きく違っています。
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/16922/p139.pdf
小乗文献では、前世の釈尊はこの殺人の罪により、死後久しく地獄で苦しみ、さらにその業の残余がカディラの破片の事件となって現われたとする。
『大乗方便経』では、前世の釈尊はこの殺人により地獄に堕ちるどころか、「十万劫の間、輪廻を滅ぼし、捨て去った」とする。
『大乗方便経』の智勝菩薩への話は、船での殺人という釈尊の前生譚(Aパート)と、カディラ樹の破片が足に突き刺さった今世の出来事(Bパート)に分かれている。
Bパートは次のように説かれます。
舎衛城に、最後身の者(解脱前の最後の生存にある者)20人と、その20人の怨敵である20人がいた。
そして怨敵20人はそれぞれの悪だくみをもって、「私らは友のふりをして、それぞれの怨敵の家に入り込み、彼らを殺そう」と考えた。
釈尊のもとに40人が赴いた。
釈尊は目連に「この場所からカディラ樹の破片が出現して如来(釈尊のこと)の右足の裏に突き刺さるであろう」と語った。
カディラ樹の破片が地面に刺さり、如来がカディラ樹の破片の上に足を踏み下ろした。
アーナンダは私(釈尊)に「世尊がいかなる前世の業の障礙を作られたので、その業の異熟がこのように現われたのでしょうか」と尋ねた。
私は「アーナンダよ、私は前世に大海を航行していた時、奸佞な商人を矛で突き刺して殺した。これはその業の残余である」と説いた。
すると殺害を意図して友のふりをしていた20人は「如来ですら業が異熟するなら、われらにどうして業が異熟しないだろうか」と考えた。
彼らはただちに釈尊に「世尊よ、私どもは人を殺害しようと思っておりました。われらは世尊の前で、その過ちを告白しますので、世尊は私たちの告白をお受け下さいますようお願いします」と、罪過を告白した。
釈尊は彼らに、業の作用と、業の消滅・業の発動等々の法を教示したので、40人に智慧の現観があった。
釈尊の足にカディラ樹の破片が突き刺さったのは、このような因と縁によるものであり、これも菩薩と如来の善巧方便である。
船上の殺人が前世の業因であることを釈尊が説いた小乗の聖典を論拠にして、小乗徒が前世の悪しき業繋を主張したため、『大乗方便経』の編集者は、アーナンダへの説法を釈尊が自ら否定するという構成を取って、小乗徒が依拠する聖典の権威を無力化することを意図した。
『大乗方便経』では、小乗の聖典が釈尊の足の怪我は前世の殺人が業因であると説いたことは、40人を教化するための方便であり、その怪我も釈尊がわざとやった芝居であって、過去世の業報ではなかったとする。
前世での菩薩の殺人事件を全否定するより、英雄譚に変えることが得策であり、その際に菩薩による殺人が可能な条件を細かく明らかにすべきであると判断したのではないか。
『大乗方便経』がAパートで、前世の業因となった殺人事件を取り上げ、その殺人行為を正当化したことが思想史的に重要な意味をもったことは否定できない。
「菩薩が積極的に殺人を犯すことも特定の条件の下ではありうる」という大乗特有の律を示す重要な例として、その後の大乗における戒律の考察に影響を与えた。
特に『瑜伽師地論』(4世紀)「本地分」の「菩薩地戒品」にある三聚浄戒の違反の規定には、『大乗方便経』の菩薩の殺人の記事を参照していると思われる記事である。
菩薩の殺人は菩薩戒に違犯するところにならず、それどころか多くの功徳を生じるという。
『大乗方便経』によって、殺生が罪にならないとされるようになったわけです。