三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

曾野綾子『老いの才覚』(1)

2021年01月08日 | 

武田砂鉄『紋切型社会』に、新書を中心に嫌中・嫌韓本が乱立する事態を考えるシンポジウムをレポートした『週刊金曜日』(2014年8月1日号)の記事が紹介されています。

ある書店の店長は、この手の本を「購入する客層や特徴は?」との問いに、「曾野綾子の読者層」と断言している。

年老いた大家にガミガミ言われたい読者と、隣国への雑言を共有したい読者はリンクしている、ということなのだろう。直接的ではなく本の中で間接的に先達から説教を食らう。一方で、自分には直接的な危害が加わらない海の外へ攻撃を加える。自身の安全が約束された形で説教を受け、攻撃を続ける。


武田砂鉄さんは曾野綾子『老いの才覚』から引用しているので、『老いの才覚』を読んでみました。
どんな説教をしているかというと、今の老人は・・・、戦後教育が・・・、昔の人は・・・、そして自慢話、です。

日本の年寄りは、戦前と比べると毅然としたところがなくなりました。

もちろん曾野綾子さんのことではありません。

才覚とはCMI(今まで得たデータを駆使して、最良の結果を出そうとするシステムのこと)のようなもの。

昔の人は、そのシステムが頭の中に入っていました。こういう状況の時、自分はどうすればいいか。もしこの方法がダメだったら、次はどうしたらいいか、と機転を利かせて答えをだした。それが、才覚です。
最近、地震災害などがあると、テレビに「頭が真っ白になって、何も考えられない」と話している被災者が必ず登場します。揺れている間は、頭が真っ白になって何も考えられなくても、揺れがおさまればどうにか考えられるものです。どうして、おにぎりやパンの配給があるまで、呆然となすところなく座っているのか、不思議でなりません。
戦争中なら、どこにも食料はありませんでしたが、今は、どこの家でもお米の一キロや二キロはあります。避難する時は持ち出せなかったとしても、揺れと揺れの間に家に入って持ちだすこともできましょう。
私なら、余震の間にどこかからお鍋を調達してきて、即席のカマドを作り、倒壊家屋の廃材や備蓄してある薪を使って、自分でご飯を炊く。同じくらいの大きさの石が三つあれば、鍋を置いても安定します。ブロックでも煉瓦でも、壊れた家から失敬してくればいい。その程度のものなら、非常時は無断借用する才覚も必要です。
若い人は、「頭が真っ白で何も考えられない」のが自然なのかもしれません。しかし、少なくとも、戦争を体験している世代は、戦時下では頭が真っ白になるような人は生き延びられなかったはずです。被災した時こそ、高齢者だという甘えを捨て、過去の経験を活かし、率先して行動すればいいのです。

揺れただけなら自宅に戻るだろうし、家屋が倒壊するほどの揺れだったら、米を持ち出したり鍋を調達することは無理でしょう。

どうして才覚のない老人が増えてきたのか。
原因の一つは、基本的な苦悩がなくなったからだと思います。望ましいことではありませんが、昔は戦争があり、食べられない貧困があり、不治の病がたくさんありました。家もお粗末でしたから台風が来れば必ず屋根が飛んだり山崩れがあったりして、自然災害もひどかった。そういう目に遭うから、ある程度は運命を受諾し、また災害を自分たちでどう防ぐか、他人や国に頼らず知恵を絞ったのです。
ところが今は戦争がないから、明日まで生きていられるかどうかわからない、という苦悩がない。医療が進んで結核で死ぬ人も少なくなったし、昔みたいに子供の五人に一人が死ぬということもない。食べられなければ、生活保護がもらえる。山崩れや津波も予知して防いでくれる。

つまりは「昔はよかった」ということです。
しかし、戦争や貧困が知恵を育み、精神を豊かにするのなら、シリアやロヒンギャの人たちは今の状態のままでいいことになります。
いつから山崩れや津波の予知をして防ぐことができるようになったものやら。

さらにこのようにも言っています。

よく「日本は経済大国なのに、どうして豊かさを感じられないのだろうか」と言われますが、答えは簡単です。貧しさを知らないから豊かさがわからないのです。今日も明日も食べものがあって当然、水道の栓をひねれば、水が飲める。飲める水を使ってお風呂に入り、トイレを流している。昔は日本人も水を汲みに行ったり薪を取りに行ったりしましたが、今はそういう生活が当たり前になった。もともと人間が生きるということはどういうことかを全然知らない、おめでたい老人が増えたのです。(略)
原初的な不幸の姿が見えなくなった分、ありがたみもわからなくなった。そのために、要求することがあまりにも大きい老人世代ができたのだと思います。


やまゆり園事件の植松聖死刑囚の手記に同じことが書かれています。

人間は〝高等な動物〟でしかなく、「ダメですよ」と言葉だけで理解できるほど優れた生物ではありません。「マズイ飯」を食べることも必要です。それは基本的、原始的不幸を体験したことのない人は、幸福を発見する技術を見失っている為です。(『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』)

植松聖死刑囚は「基本的、原始的不幸」という言葉を使っています。
曽野綾子さんに影響されたのでしょうか。

コメント
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