三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

再審請求と冤罪

2018年04月08日 | 死刑

裁判官だった原田國男氏が『裁判の非情と人情』で死刑について書いています。

私がかかわった死刑囚の死刑が執行されたと後日報道で知ると、心からその冥福を祈る。被害者遺族の方々からすれば、被害者の冥福こそ祈るべきで、死刑囚の冥福を祈るなどけしからんと思われるであろう。死刑の言渡しは、正当な刑罰の適用であって、国家による殺人などではないということはよくわかるが、やはり、心情としては、殺人そのものである。法律上許されるとはいっても、殺害行為には違いはない。
目の前にいる被告人の、首に脈打つ血管を絞めることになるのかと思うと、気持ちが重くなるのも事実である。言渡しの前の晩は、よく眠れないことがある。

そして、このように言い切ります。

自信たっぷりの死刑判決など本来ないのである。

ところが、死刑執行後の法務大臣のコメントはいつも自信たっぷりのように感じられます。

2017年7月13日、西川正勝死刑囚が再審請求中だったにもかかわらず死刑を執行されたことについて、安田好弘氏がフォーラム90の集会で話をしています。(「フォーラム90」Vol.154「死刑が緩和される方向に向けて」)

金田法務大臣「法務大臣臨時記者会見の概要」

一般論として、仮に再審請求の手続中はすべて執行命令を発しない取扱いとした場合には、死刑確定者が再審請求を繰り返す限り、永久に死刑執行をなしえないということになり、刑事裁判の実現を期することは不可能となるものといわなければなりません。したがって死刑確定者が再審請求中であったとしても、当然に棄却されることを予想せざるをえないような場合は、死刑の執行を命ずることもやむを得ないと考えています。


1999年、小野照男死刑囚が再審請求中の執行があった。参議院法務委員会での質問に対する臼井法務大臣の答弁もほぼ一緒。

もし再審請求の手続き中はすべて執行命令を発しない取り扱いをするものということであるならば、死刑確定者が再審請求を繰り返す限り、永久に刑の執行をなしえないというということになりまして、刑事裁判の実現を期するということは不可能になるものと言わなければならないところでございます。従いまして、死刑確定者が再審請求中であったと致しましても、当然、棄却されることを予想せざるをえないような場合におきましては、執行を命ずることもやむを得ないと考えております。

法務官僚の作文が17年後にも生きている。
つまり、死刑執行は政治家が決断しているのではなく、法務官僚が行っており、執行の説明さえも彼らが考え、大臣が記者会見で話す言葉さえも用意している。

「再審請求中に執行できないならば永久にできない」
「再審が棄却されることが明らかな場合は執行できる」

三権分立のもと、再審は裁判所だけが判断することになっているのであり、行政が判断することは許されていない。
なのに、再審が認められるかどうかを法務大臣、あるいは法務官僚が判断して執行するのは越権行為である。

免田栄さんの再審は第6次再審で認められた。
赤堀政夫さんは第4次再審。
奥西勝さんは第7次再審でいったん再審開始決定が出ている。
徳島ラジオ商事件は第6次再審。
こういうことが再審の実態で、再審請求を繰り返さないと再審は実現できない。
にもかかわらず、法務省は「理由もなく繰り返す」と非難している。

原田國男氏は「それにつけても、最近不思議だと思うことがある」と、冤罪事件についてこのような疑問を呈しています。

氷見事件、足利事件、東電OL殺害事件において再審が認められて、被告人はいずれも無罪となり、真犯人が別に存在することまで明らかになった。
ところが、裁判所は知らん顔を決め込んでいる。
法務検察と裁判所において、再発防止策を具体的に検討したふしはない。

結局、裁判所が最終的に再審無罪を確定させたのであるから、自浄作用は、まさに、正常に働いており、問題はないという見方がされているのかもしれない。しかし、それも弁護団等の多大な尽力があったからこそ、実現したのである。


冤罪について法曹にはこんな考えがあるそうです。
・冤罪は存在しない。再審にしろ、通常の裁判にしろ、無罪となったのであるから、裁判所の判断は、最終的に正しかった。裁判所が無罪としている事件は、その意味で、冤罪とはいえない。
・冤罪とされる事件の多くは、判断が分かれ、微妙なものであって、被告人が真犯人である可能性は残っているから、冤罪とはいいきれない。
・冤罪が生じるのは、刑事裁判制度の不可避の現象であって、これを少なくすべきなのは、当然であっても、制度自体を廃止できない以上、限界がある。
・我が国はこれまで無実の者を死刑にした例はない。
・冤罪は、死刑に特有なことではなく、あらゆる犯罪に起こりうることだから、冤罪を理由に死刑を廃止すべきだというなら、他の刑罰も廃止すべきではないか。

そもそも、我が国の刑訴法学者の多くは、冤罪不存在論か冤罪不可避論に立ち、冤罪問題について、実に冷淡であり、これは世界的にみても特異な傾向であろうと、原田國男氏は言います。

一般国民は、冤罪事件といえば、強盗殺人や殺人で、しょせん、裁判官が判断することであり、自分には関係がないと考えてきたであろう。

たしかに、国民の多くは冤罪問題についてさほど関心があるようには思えません。
冤罪事件があれば、最高裁や法務省に抗議デモがあってよさそうなものです。

平川宗信氏は「国民に主権意識がなさすぎます」と断じます。
主権者として、自分たちが死刑を存置し、自分たちが殺しているのだという自覚がない。
主権者意識がないという根底には、社会を支え、国を支えている個人という意識がない。

私は、死刑囚の首にかかっている縄は、その端が一億本余に分かれていて、私たち一人一人がその端を引っ張っているのだという話をします。(「フォーラム90」Vol.150)


鎌仲ひとみ氏の話の中に「あなたの家のコンセントの先は原発につながっている」ということがありましたが、死刑も原発も私と無関係な事柄ではないわけです。

コメント (19)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする