三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

山田満編著『東ティモールを知るための50章』

2013年08月21日 | 

1999年の東ティモール独立をめぐる紛争のニュースを見ながら、九州よりちょっと小さい島なのに、どうして二つの国に分かれて独立しようとするのかわからなかった。
ティモール島はインドネシア領の島にまわりを取り囲まれている。
民族、文化、宗教などが東西ティモールで大きく違うわけでもないらしい。
おまけに西ティモールに飛び地があるわけで、ティモール島全体で一つの国になればいいのにと思った。

それからはや十数年、図書館に行くと山口満編著『東ティモールを知るための50章』(2006年刊)という本がありました。

東ティモールの歴史を見ると、16世紀にポルトガルがティモール島の白檀貿易を開始、ティモール島の領有を宣言する。

17世紀以降、オランダとポルトガルの抗争が始まり、オランダは1688年には西ティモールのクバンを占領、18世紀までにオイクシ(東ティモール領の飛び地)を除く西ティモールを支配する。
1859年、リスボン条約により西ティモールのオランダへの譲渡。
1904年、ポルトガル・オランダ条約による国境の確定。
何年にティモール島がポルトガル領とオランダ領とに分けられたのかははっきりしないが、約200年間は分断されていたことになる。
1974年、革命によって成立したポルトガルの新政権は非植民地化の方針をとる。
1975年、インドネシアの軍事侵攻、そして1999年まで占領する。
「東ティモールも独立が正当化された主因として、インドネシアの他地域との共通の歴史を共有していなかったことがあった」

ウィキペディアの「西ティモール」の項を見ると、西ティモールの失業率は10%、一人当たりの所得もインドネシア全体の平均の約3分の1で、西ティモールの経済は大きく遅れをとっている、とある。
それでも東ティモールより豊からしい。

『東ティモールを知るための50章』に、新屋敷道保さんが2001年に西ティモールへ行ったときのことが書かれてある。
「道すがら見た西ティモールの農村風景に圧倒され続けた。綺麗に整備された田園風景が延々と続き、そればかりか各農家に穀物倉庫があり、そこには一年中の穀物が貯蔵されていた。ときには家より立派な倉庫もある。倉庫の下が作業上や休憩場所となっている。これを見たとき東と西の農村生活に歴然とした違いがあるのを垣間見た。そして、西ティモールの農民の笑顔に生活のゆとりがあるのを感じた」

「森林状況が東ティモールとはまったく違う。西ティモールでは山といえど隙間がないくらいチークを植林している。それは夥しい面積である。車で何時間走ってもその景色が消えることがない。そして、禿山がまったくない」

東ティモールでは道路事情が悪いため、余剰米を国内で販売できない。
また、灌漑設備が不備なので乾期に稲作ができない。
ポルトガルの植民地政策は道路や灌漑の整備などの開発や投資を行わず、住民に教育を与えることをしなかった影響である。
また東ティモールでは、山焼きをしたり、燃料や煮炊きに薪を使うために森林破壊が続いており、北部は禿山が延々と続いている。

インドネシア時代には国からの補助があったのでガソリン代も安かったが、インドネシアの手を離れた途端に石油などの油の値段が約3倍になり、バス代が10倍になった。

地方からバスで首都のディリまで出てきて野菜を売ってももうけにならない。
「発電機を使っている東ティモールの電気代は、世界一高いともいわれている」

東ティモールでは政治も不安定である。
インドネシアの支配がひどかったにしても、独立に際して違ったやり方があったのではないかと感じる。
植民地支配から脱却しても負の遺産はいつまでも残る。
東ティモールの現状はアフリカの多くの国の混乱と似ていると思った。

コメント
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