三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

高齢化社会って

2013年08月07日 | 青草民人のコラム

青草民人さんです。

7月になり、学生たちがそろそろ試験で休みに入る季節になった。いつもの通勤電車も心なしか空間が広くなったように感じる。蒸し暑い車内で、普段は隣人と鼻をつき合わせて息を殺して我慢している状態だが、今日は周りを見る余裕があったせいか、一息つこうと中吊り広告に目をやった。

視線を車内に向けると、今まで満員電車の中で、あまり気がつかなかったが、早朝にもかかわらず、意外とご高齢の方が多く乗っていることに気がついた。しかし、どの方を見ても、とても遠慮がちに乗っているように見える。お仕事をされているのか、病院に行かれるのか。中には、マスクをして、帽子を深くかぶり、人目を気にしながら乗っておられる方もいる。どうみても旅行に行くような様子ではない。
優先席の近くにいても、疲れたサラリーマンたちは、積極的に席を譲るのでもなく、寝たふりなのか、本当に寝ているのか、その方たちと目を合わさないように勝ち取った座席を死守している。

我が国の総人口は、2012年の10月で1億2752万人。そのうち65歳以上の高齢者人口は過去最高の3079万人。総人口に占める割合は、約24%。そのうち75歳以上は約12%を占めているという。

今後、高齢化は進み、2060年には、高齢化率は、約40%となり、2.5人に一人が65歳以上となり、4人に一人が七十五歳以上になるといわれている。平成24年には、高齢者一人に対して現役世代が2.6人、2060年には高齢者一人に対して現役世代が1.3人を支える社会となるという。

高齢化が進んでも安心して暮らせる社会を作っていくことは急務である。来たる選挙の争点にこのことがどれだけ反映されているのだろうか。お年寄りを敬い、大切にしてきた歴史が我が国にはある。日本の村社会は、長老によって集団を維持してきた。家庭では祖父母の存在が生活の知恵として、冠婚葬祭や子どもの教育に生きてはたらいていた。現代では、こうした状況が都市化の波と核家族化によって、分断されてきた。


かくいう私自身も母を一人で実家に住まわしている。「元気なうちは一人の方が気が楽だ」と母は言うが、こうした家庭が、いま都内に広がっている。母の住む世田谷区では、町内会でこうした家庭を見守る活動をしているところもある。母自身も近所の同じような家庭の方たちと共に支え合っている。


誰かのために役立っているというはたらきは、その人自身の生きる力も支える。昔ながらの長屋の相互扶助の精神と知恵がそこに生きている。私も50歳を過ぎて、頭に白い物が出てきたり、近くのものが見えにくくなったり、それなりに高齢化している。しかし、それに抗うかのように新しいことにも挑戦をしている。


人は、過去に想いを馳せ、現実を悲嘆することも時には大切だが、生死一如の世界を生きる私たちの行く末は皆、倶会一処。今を楽しむといっては語弊もあるが、生き生きと年を重ねることも大切なような気がする。静かな水面に一石を投じると波紋は次第に遠くへ広がっていく。その一石を投じる勇気と元気の源は、自分を支える存在であり、教えであり、仲間だろう。


洋の東西を問わず、人は自分を支えるもの(これを仮に宗教と呼ぶならそれでもいい)それを基盤として、自分自身の現実を映す水面に一石を投じることも必要ではないだろうか。世間から小さくなって、ひっそりと暮らす。そんな年の取り方が当たり前の世の中であってよいはずがない。


その電車が次の駅に着いたとき、大きな荷物を持ったおばあさんが乗ってきた。そのおばあさんは、近くの若いサラリーマンに突然こう言った。

「すいませんが、この荷物を網棚にのせてくれませんか」
初めは面食らっていたお兄さんも、一瞬ためらったが、そっと網棚に荷物をのせてあげた。「ありがとうね」の言葉に若者もはにかんでいたが、うれしそうだった。さすがの座席守備隊も、見かねて「どうぞどうぞ」と席を譲った。

自分のできないことを堂々と人に頼んだおばあさん。満員電車で一石を投じたおばあさんに軍配が上がった。なかなかできることではないと思うが、昔は当たり前の仕草だったような気がする。こうした日本の原風景をもう一度取り戻せたら、日本の未来も違ってくるのかもしれない。
「加齢臭」なんていう言葉を粉砕し、堂々と年を取りたい。いつまでも若い、つもりでもいいから生きていきたい。かっこいいおじいさんやおしゃれなおばあさんが、たくさん出てきてほしい。そして、若者には年を重ねることがよいことだということを感じてほしい。

たくさんの問題を抱える日本の社会にあって、どうしても後回しにされるのが、高齢者の問題である。社会保障制度の問題は、経済復興や国際問題の影に隠れて、いつも日の目をみない。もう少し真剣に私たち自身が考えていかないと、若い世代に対しても申し訳がない時代を作ってしまうことにもなる。お年寄りが安心して暮らせる社会の実現は、イコール私たちの未来を作ることでもある。


高齢化の問題は、少子化の問題とも関連する。安心して若い夫婦が子育てできること。産んで育てて、教育し、やがて成長した子どもたちが親を支える。日本の基盤をしっかり支えるものは、やはり人である。経済も国際問題も、我が国の基盤としての国民生活が十分安定していない状態では、アベノミクスも一時の特効薬にしか過ぎない。


息子は学生ではあるが、がんばって国民年金を払っている。払うようにいったのは私だが、この話を書いているうちに、彼の払った年金は、彼自身がもらえる時代が来るのか不安になった。そんな不安が世間の常識になれば、年金制度だって崩壊してしまう。行く末を案じてみんなが貯金すれば、市場に出回るお金も減り、経済も沈滞する。


専門家でなくても、こうした漠然とした不安は、何となく予想できる。老後の不安を少しでも解消しようと海外に移住する人が増えていると聞いた。経済的に余裕がある人はそうしたこともできるだろうが、多くの日本人にはあてはまらない。政治の話をするつもりはないが、参議院選挙の前にふと感じた。どうする日本。

コメント
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