三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『橘外男ワンダーランド』2

2013年02月06日 | 

橘外男について、永井龍男は『回想の芥川・直木賞』に「人としての印象も両賞を通じてその後二人とない「変り者」であった」と述べている。
もっとも、どこがどのように変わっていたのか、永井龍男は橘外男の原稿のことしか書いていない。
「彼の原稿というものも、他に類を見ない。だいたい五十枚以下のものは書かず、百枚二百枚におよぶ小説がほとんどであったが、私の想像によると、起稿から擱筆まで、一気に筆を進め、それから推敲に入るのだが、その加筆振りが尋常ではなかった。不満の個所は墨汁と毛筆で、他人には一字も見えぬまで丹念に塗りつぶす。それも、乾いてからは照りを持つほど暑く、何回も塗りつぶしてから、原稿用紙の欄外を極度にまで利用して九ポか八ポの活字位な細字で、ぎっしり書き込みをしてある。書き直せば一枚がゆうに二枚以上になるに違いない。それも一篇の小説の原稿が、第一頁から結末までほとんど同様で、正直のところ、この男は精神的に異状な点があるのではないかと、薄気味悪さを感じるほど執拗な加筆であった。原稿の写真がないのが残念である」
これで「変り者」扱いされたのではカワイソウ。

原稿用紙が真っ黒になるくらい推敲した橘外男の文章を、都筑道夫「息ふきかえした白昼夢」はこう評している。
「だが、作品を読むたびに、私は首をひねるのだ。そこには使いふるしの言葉が、紋切り型の配列をなしていて、プロットの展開もただただ持ってまわるばかり、少しもクレヴァーなところがない。これが推敲のはてとすると、書きっぱなしだったら、どんなことになるのだろう、と心配になってくる。
桃源社本に収録されている人工美女テーマの「妖花イレーネ」には、警官隊の銃撃を「パパーン! パンパン! ヒューン! ドドドドドドドド」と書いて、読者をおどろかす箇所があるが、この素朴さに達するための苦心なのだろうか」(『死体を無事に消すまで』)

でもまあ「この素朴さ」が魅力の一つなのである。

「墓が呼んでいる」(昭和31年)は怪談だが、美女姉妹が登場して、前半はなんだか「遊仙窟」というおもむきがある。
語り手の大学生が姉妹と水遊びをした時の感想。
「頸筋、背、太腿も露わに、真っ白なからだに二人とも水着を着けて、その水着がズップリ濡れてからだ中をキラキラ陽に輝いて、すらりとしながら引き締まって均整の執れた手肢……格好のいい胸の隆まり!(略)
二人とも欲しい、(略)その一人でもいいから、早く欲しい! 早く、からだをクッつけたい!」
直木賞作家にしては稚拙と言えば稚拙だが、結核で瀕死の病人がこんなことを話すのだからタマラナイ。

橘外男は晩年にキリスト教に入信したという。

子息の宏氏は「老年の悩みが凄かった」と回想しているそうだ。
それにしても、と思う。

というのも、橘外男は終戦を満州の新京市で迎えた。

敗戦後の新京の悲惨な状況を「麻袋の行列」などで描いている。
昭和21年9月に日本に帰ってきたらしい。
ところが、帰国後、最初の小説はなんと、妻が犬と……という「陰獣トリステサ」(昭和22年1~4月)なんですね。
やっぱり変わり者だと思いました。

コメント (13)
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