三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ『錯覚の科学』3

2012年04月30日 | 

○自信の錯覚(2)

石原都知事や橋下大阪市長はけっこう失言しているのに、なぜかあまり問題にされない。
橋下市長のディベート能力の高さも人気の一因だとは思う。
自信ありげに話す人は会議をいつの間にか仕切っている。
『錯覚の科学』によれば、グループ討議では、能力がある人よりも支配的な性格の人がリーダーになりやすく、よりよい結論を出すとはかぎらない。
「支配的な人は、自信ある態度をとりがちである。そして自信の錯覚のせいで、ほかの人たちは自信をもって話す人を信頼し、従おうとする」
つまり、声の大きい者が討議をリードするわけです。

連合赤軍事件を描いた山本直樹『レッド』を読み、言葉の怖さをあらためて感じた。
支配的な幹部の自信ある言葉によって、総括を求められた人を追いつめ、身動きを取れなくさせる。
そして
、まわりの人たちは自信をもって話す幹部に従って攻撃し、そうして何人もを死に至らしめた。

『レッド』2巻に、山本直樹氏と押井守氏の対談が載っている。
押井守氏は「『レッド』に出てくる若者たちは、言葉で自分自身を追い込み、他人を追い込み、自分も破滅し他人も破滅させていく。そういう世界が、今の日本にまったく無縁だと本当にいいきれるのか」と言う。
山本直樹氏が「2ちゃんねるの言葉ってどう思います?」と尋ねると、押井守氏はこう答えている。
「あれは言葉になっていないよね。つまり、責任のない言葉は言葉じゃない。あそこにあるのは、人間性がどこまで堕落できるかという陳列にすぎない」

言葉ではないかもしれないが、力はある。
たとえば亀岡市の事故では、ネット上に「死刑だ」「少年法はいらない」という声が飛び交う。
こうして厳罰化が進んでいるわけだが、さらなる厳罰化要求がエスカレートしていく先は危険である。

討議に話は戻り、私の経験だと、討議を仕切る人はしばしば極論を言って相手をねじ伏せる。
「そうするんだったら、○○もしないといけないじゃないか」(誰もそこまでしろとは言っていないのに)
「もしも△△になったらどうするんだ」(どんなことでも可能性は否定できない)
「こないだは××と言ったじゃないか」(記憶にないが、言っていないという証拠もないので水掛け論)

私は頭の回転が鈍いし、話が下手だし、説得力がないしで、ディベートがダメなので、会議で自分の意見が否定されると、まあいいか、と思って黙ってしまう。
で、いつもあとから「こう言えばよかった」と後悔することになる。
これじゃ私が国会議員になったとしても何もできないわけで、国会議員の先生はえらいなと思います。

国の政策が決まる時にも自信の錯覚が関係している。
2008年、グルジアはロシアと武力衝突を起こし、あっさりと負けた。
「なぜグルジア政府が強い自信をもってロシアに戦争をしかけたのか」
個々人の自信度は低かったかもしれないが、「グループになったときに彼らの自信が膨張し、とても成功するとは思えない無謀な行動に走ったのだ」
「みんなで~すれば怖くない」です。

「みずから戦争をしかけて敗北した国が、ほとんど例外なく自信の錯覚に陥っていた」
日本もそうだったし、デイヴィッド・ハルバースタム 『ベスト&ブライテスト』を読むと、ベトナム戦争でのアメリカも同じ。
それ行けどんどんと景気のいいことを言う人間はみんなの受けがいいが、慎重な発言、悲観的な考えは敗北主義だとけなされる。
そうして同じことが繰り返される。

コメント (16)
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