三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

中川智正弁護団『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか?』2

2012年04月13日 | 死刑

絞首刑は残虐だからこそ、法務省は隠そうとするし、マスコミも知ろうとしない。
2010年8月27日、千葉景子法相の時に法務省は東京拘置所の刑場を報道機関に公開した。

森達也氏は安田好弘氏との対談で次の指摘をしている。(「フォーラム90」Vol.115)
「そもそも法務大臣が公開しろと言ったから公開したという、とても情けない話ですね。本来はメディアが公開しろと要求するべきです。なぜなら死刑は行政が行っています。メディアはこれを監視する義務があり、行政はそれを開示する説明責任があるんだと。極めて、当たり前のことです」
「確かに、刑場は公開されました。でもあれはグラウンドです。グラウンドだけ見ても野球はわからない。野球を知るためには野球を見なければいけない。どんな競技なのか、どういうルールなのか、どういう選手たちがいるのか、そんな情報がなければ野球について語れるわけがない」

安田好弘氏はこう言っている。
「この前の刑場公開でも、私は絞縄と言われているあの縄が、最低限設置されている状況を公開しない限り、これは本尊のない寺を見せるようなもので、実感ともおよそかけ離れてしまう。あれだけ見せられると、むしろ、人が殺される場所ではなく、むしろ厳粛な場所という感想しか出てこないんじゃないでしょうか」

実際、新聞記事(中日新聞8月27日)には「「刑場は死者の魂のいる場所。無言でお願いします」。法務省の職員から事前に指示があったこともあり、誰も声を発しない。拘置所の職員に合わせて、合掌しながら各部屋に入る」とある。
なんかおかしいように思う。
広島平和記念資料館や長崎原爆資料館で、アメリカの軍人が職員となり、「死者の魂のいる場所だから無言でお願いします」と言ったとして、その迷える死者を生み出したのは自分たちだという責任を感じていないみたいな

死刑囚が苦しみながら死ぬとしても、それだけのことをしたんだから当然だという意見がある。
たとえば大阪パチンコ店放火殺人で絞首刑は合憲だとした裁判官である。
以下、判決文の一部です。

第2 絞首刑の憲法適合性

1(略)
2 裁判員の意見も聴いた(裁判員の参加する刑事裁判に関する法律68条3項)上,弁護人の主張を検討したが,絞首刑は憲法に違反するものではないとの結論に至った。その理由は以下のとおりである。
(1)(略)
(2)ア このように,絞首刑は,多くの場合,意識喪失までに最低でも5ないし8秒,首の締まり方によっては,それが2分あるいはそれ以上かかるものとなり,その間,受刑者が苦痛を感じ続ける可能性がある。しかも,場合によっては,頭部離断,特に頸部内部組織の離断を伴うことがある。絞首刑には,受刑者が死亡するまでの経過を完全には予測できないといった問題点がある。
イ しかし,死刑は,そもそも受刑者の意に反して,その生命を奪うことによって罪を償わせる制度である。受刑者に精神的・肉体的苦痛を与え,ある程度のむごたらしさを伴うことは避けがたい。憲法も,死刑制度の存置を許容する以上,これらを不可避のやむを得ないものと考えていることは明らかである。そうすると,死刑の執行方法が,憲法36条で禁止する「残虐な刑罰」に当たるのは,考え得る執行方法の中でも,それが特にむごたらしい場合ということになる。殊更に受刑者に無用な苦痛を与え,その名誉を害し,辱めるような執行方法が許されないことは当然としても,医療のように対象者の精神的・肉体的苦痛を極限まで和らげ,それを必要最小限のものにとどめることまで要求されないことは明らかである。自殺する場合に比べて,安楽に死を迎えられるということになれば,弊害も考えられる。特にむごたらしいか否かといった評価は,歴史や宗教的背景,価値観の相違などによって,国や民族によっても異なり得るし,人によっても異なり得るものである。死刑の執行方法が残虐と評価されるのは,それが非人間的・非人道的で,通常の人間的感情を有する者に衝撃を与える場合に限られるものというべきである。そのようなものでない限り,どのような方法を選択するかは立法裁量の問題といえよう。
ウ 絞首刑が死刑の執行方法の中で最善のものといえるかは議論のあるところであろう。しかし,死刑に処せられる者は,それに値する罪を犯した者である。執行に伴う多少の精神的・肉体的苦痛は当然甘受すべきである。また,他の執行方法を採用したとしても,予想し得ない事態は生じ得るものである。確かに,絞首刑には,前近代的なところがあり,死亡するまでの経過において予測不可能な点がある。しかし,だからといって,既にみたところからすれば,残虐な刑罰に当たるとはいえず,憲法36条に反するものではない。
また,Jの証言や,弁護人が提出した証拠によっても,頭部離断は,例外的に事故として生じるものであると認められ,しかも,多くの場合,頸部内部組織の離断にとどまる。そうすると,たとえこれらの事態が生じたとしても,多くの場合,断頭とまではいえないし,極めてまれな例外的な場合を一般化し,絞首ではなく断頭であるとするのは相当ではない。したがって,憲法31条に反するものでもない。
 弁護人の主張は理由がない。

コメント (18)
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