今まで親鸞伝研究は『恵信尼文書』と覚如の『御伝鈔』を基本資料としていたが、高田派の『正明伝』、仏光寺派の『親鸞聖人御因縁』を使って親鸞像を読み直すと、『親鸞再考』で松尾剛次氏は言う。
これは佐々木正氏が『親鸞・封印された三つの真実』などで同じ問題提起している。
両氏は玉日姫の実在を主張し、覚如が玉日姫を意図的に無視して『御伝鈔』を書いたとする。
越後に流された親鸞は赦免後すぐに関東に移ったのではなく、一度京都に戻り、そうして関東へ行ったと、『正明伝』や『親鸞聖人御因縁』にある。
「よく考えてみると、通常は京都から配流されれば、赦免した場合は、朝廷の責任で京都へ送り返すものだ」
「当時の刑法手続きから判断すれば、親鸞は赦免によって越後から帰京したのではないか。たとえどこかに行くにしても、その前にいったんは帰京したはずだと考えられる」
松尾剛次氏はこのように説明し、では、なぜ覚如は『御伝鈔』に、親鸞が越後から京都に戻り、そうして関東に赴いたことを書かなかったのかを問題にする。
それは、恵信尼の子孫を正統としたい覚如としては、玉日姫の存在を消したいためだという。
『正明伝』に、親鸞は法然の命で九条兼実の娘玉日姫と結婚したとある。
江戸時代までは事実とされていたが、現在は否定されている。
しかし、松尾剛次氏は「私見を結論的にいえば、九条兼実の娘との結婚は事実ではないかと考える」
「第一に、親鸞の公然たる結婚というきわめて革命的な行為を、親鸞一人の判断でできたとは考えがたい。法然門下として、法然の指示、言い換えれば「命令」があったとすれば容易に理解できる」
「第二に、これによって、先述したように『伝絵』などが、親鸞が配流地である越後から上京し、玉日姫の墓を詣でたという事実を隠そうとした点もよく理解できるようになる。親鸞は、配流を解かれたあと、京都へ戻り、正妻で、配流中に死亡した玉日姫の墓所にも詣でたのであろう。しかし、恵信尼系の覚如にとって、恵信尼以外の妻のことは無視したかったはずであり、そのために、帰京せずに直接常陸稲田へ向かったという話を作ったのであろう」
京都時代の親鸞は玉日姫が正妻で、恵信尼は側室だったと松尾剛次氏は書き、そして佐々木正氏は長男の印信が玉日姫の子どもだとするが、松尾剛次氏は善鸞も玉日姫の子どもだと言う。
うーん、どうなんでしょう。
木越祐馨「家系と出自」(『誰も書かなかった親鸞』)には「関東の門弟が手にとった『親鸞伝絵』での意図的な世系の創作は不可能であろう」とある。
関東の門弟は『御伝鈔』を受け入れているわけで、覚如が『御伝鈔』で玉日姫の実在を抹消しようとしたという考えは無理があるように思う。
それと、親鸞が玉日姫と結婚した理由である。
九条兼実が、肉食妻帯の破戒無戒の生活に沈んでいる俗人は劣った浄土に往生するのではないかと法然に尋ね、「出家の僧ひとりを選んで、私の娘と結婚させよ」と迫る。
それで法然は親鸞に九条兼実の娘と結婚するよう命じたので、親鸞は泣く泣く玉日姫との結婚に踏み切った。
これはいくらなんでも作り話めいている。
もしも事実だとしたら、佐々木正氏が「出家の僧侶とトップの貴族の娘が、正式に結婚することになった。当時としてはスキャンダラスな事件だった可能性がある」と言うように、当時の文献に書き残されてもおかしくない。
安藤弥「関東門弟 親鸞書状にみる門弟の動向」には、「近年、親鸞伝の再検討が注目されるなかで、しっかりとした史料批判の手続きを経ずに、伝承史料を安易に用いる傾向がある。門弟研究においても注意すべき状況である。この問題は関係者が思っているよりも、かなり深刻であり、今あらためて親鸞研究をめぐる視点・方法を鍛える必要性を痛感している」と厳しいことを言っている。
はてさて。