三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

伊坂幸太郎『重力ピエロ』と港かなえ『告白』

2010年11月02日 | 
映画『重力ピエロ』で、末期ガンの父親が次男に出生の秘密を語るシーンにはええっと思った。
母親が強姦されて生まれたのがお前だなんてこと、親としたら墓の中に持っていくべき秘密でしょう。
父親役は小日向文世、あなたのことはよくわかってますよ、という演技が得意な人である。
小説『重力ピエロ』では、十年ぐらい前だから高校生の時か、やはり父から知らされたということになっている。
もっとも、どうしてそんなことを教えたのかは書かれていない。
不思議に思うのが、親戚や近所の人たちがこの秘密を知っているということ。
普通なら隠すことだし、父親の実子の可能性があるのに、どうして強姦犯の子どもだとみんな断定しているのだろうか。

それと、なぜ放火したのか、遺伝子と関係づけたのはどうしてか、その謎解きはウンチクと合わさって面白いのだが、まるっきり説得力がない。
主人公兄弟は犯罪被害者だし、加害者は悪いことをしたとも思っていない。
だから、兄弟の行動は正しい、というお話に『重力ピエロ』はなっている。
次男は「意味を考えていると、物事は複雑になってしまうんだ。人が誰かを殺したとするだろう? そうするとみんなで原因を追及するんだ。恨みがあったのか、情状酌量の余地はないか、もしかしたら、精神的な混乱があったのかもしれない、なんてね。そんなことをしているから、にっちもさっちも行かなくなる。結果だけを見ればいい。人を殺したという結果だけを。そうでないとどこかの知った顔の優等生の子供が、『なぜ人を殺してはいけないんですか?』なんて言ってくる」と言う。
ただの殺人ではない、天誅だ、天に代わって成敗するというわけである。
だけど、被害者だったら何をしてもかまわないのかと思う。
老人がやけどし、建物が燃えようと、この兄弟は被害者なんだから何をしてもいいのか。
まあ、たしかに加害者はどうしようもなくひどい人間として描かれてはいる。
だからといって、少年法で加害少年が守られているのはおかしいという理屈は論理の飛躍である。

港かなえ『告白』で、H市母子殺人事件について中学校の女の子がこんな感想を書いている。
「私は、裁判なんて必要ないじゃないか、犯人を遺族に引き渡して、好きなようにさせてあげればいいじゃないか、と思っていました。(略)
犯人の少年にだけでなく、必要以上にかばい立てし、誰がどう聞いてもおかしいだろうという理屈を平然と並べ立てる弁護士にも腹が立ちました。その人なりに崇高な理想があるのかもしれませんが、それでも、テレビにその弁護士が映ると、この人が目の前を歩いていたら背中を突き飛ばしてやりたい、この人の家を知っていたら石でも投げてやりたい、そんなふうに思ったことが何度もあります。(略)
でも、この手紙を書いている今は、少し考え方が変わりました。
やはり、どんな残忍な犯罪者に対しても、裁判は必要なのではないか、と思うのです。それは決して犯罪者のためにではありません。裁判は、世の中の凡人を勘違いさせ、暴走させるのをくい止めるために必要だと思うのです。
ほとんどの人たちは、他人から賞賛されたいという願望を少なからず持っているのではないでしょうか。しかし、良いことや、立派なことをするのは大変です。では、一番簡単な方法は何か。悪いことをした人を責めればいいのです。それでも、一番最初に糾弾する人、糾弾の先頭に立つ人は相当の勇気が必要だと思います。立ちあがるのは、自分だけかもしれないのですから。でも、糾弾した誰かに追随することはとても簡単です。自分の理念など必要なく、自分も自分も、と言っていればいいのですから。その上、良いことをしながら、日頃のストレスも発散させることができるのですから、この上ない快感を得ることができるのではないでしょうか。そして、一度その快感を覚えると、一つの裁きが終わっても、新しい快感を得たいがために、次に糾弾する相手を捜すのではないでしょうか。初めは、残虐な悪人を糾弾していても、次第に、糾弾されるべき人を無理矢理作り出そうとするのではないでしょうか。
そうなればもう、中世ヨーロッパの魔女裁判です。愚かな凡人たちは、一番肝心なことを忘れていると思うのです。自分たちには裁く権利などない、ということを…」

これは被害者の聖域化に便乗して勝手なことを言っている人への批判である。
マスコミやネットでの弁護団への異常なバッシング騒ぎを通して、港かなえ氏自身が感じたことだと思う。
でも、これを読んで、自分のことを言われている、と思って反省した人はいない気がする。

伊坂幸太郎氏の小説の会話はアフォリズムであふれている。
たとえばこれ。
「小説を読むのは、でたらめを楽しむためじゃないか。細かい誤りを取り上げて、つべこべ言うのは実は小説が嫌いな人だ」
しかし、デタラメだからといって何でも許されるわけではないし、細かい誤りを気づかせずにうまく騙してほしいと願うのが読者というものである。
コメント
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