徳留佳之『お墓に入りたくない人 入れない人のために』を読んで、散骨とは、共同体の崩壊→核家族化→個人化(個別化)の表れだと思った。
山の麓にある田舎の墓地だと、小さな墓石がいくつもあって、その横に新しく建てた○○家の墓があることが多い。
先祖代々の墓ということである。
ところが、都会に出てくると、家とか先祖をあまり考えない。
それでも家族が亡くなれば墓を新しく建てるなり、故郷の墓に納骨するのが当たり前だった。
ところが散骨などの自然葬は、家単位ではなく、家族それぞれが自分の骨の処分方法を選ぶことである。
なぜ散骨するのかというと、
1,自然に帰る
2,子どもに負担をかけたくない、もしくは子どもがいない
ということらしい。
散骨が知られるようになったのは「葬送の自由をすすめる会」の活動によってである。
『お墓に入りたくない人 入れない人のために』によると、「葬送の自由をすすめる会」の趣旨は、墓苑建設のために自然が破壊されること、墓を作るために費用がかかる、そして何よりも死者を葬る方法は自由に決められるべきだということらしい。
「葬送の自由をすすめる会」では、単に骨をまくのではなく、「自然の摂理にかない、自然環境を守る葬法」を自然葬と呼んでる。
骨粉を水槽に混ぜて魚のエサにする、庭や鉢植えに混ぜて肥料とする、穀類に骨粉を練り込んでダンゴにしたものを野鳥にあげる、といった自然葬を徳留佳之氏は紹介している。
これはチベットの鳥葬と同じ趣旨だが、ちょっとなあと思う。
散骨も演出が必要だそうだ。
「ヘリコプターによる空からの散骨も実施していますが、実際にやってみると海に流す場合とは異なり、あっという間に消えてしまって実感がわかず、実施も数例のみだそうです。セレモニーが本業の立場からすると、演出がしにくい面もあるようです」
「演出」という言葉がこういうところに使われるのはいい感じがしない。
海への散骨は262,500円、ヘリコプターでの散骨は525,000円。
遺骨を埋めて墓標の代わりに樹木を植える樹木葬は50万円。
桜の木のもとに納骨する桜葬(「桜葬」は登録商標だそうです)は、個別区画だと30万円と環境保全費の20万円。
墓に納骨したり散骨する以外にも、バルーン宇宙葬、人工衛星の宇宙葬、ニーム葬、花火葬、月面葬、フリスビー葬、珊瑚葬、絵画葬、肥料葬などなどがあるそうだ。
手元供養というのもある。
「手元供養とは、遺骨の一部をオブジェなどに納めて自宅に置いたり、ペンダントやブローチなどに収納・加工して身につけやすい形にすることで、身近で供養しようとする方法です」
室内に飾ることを前提としたプレートや置物といった「卓上型」製品、ペンダント、指輪、数珠のように、身につけるタイプの「手元型」製品がある。
しかし、手元供養する人が死んだら、それらの品をどうするのだろうか。
死者への思い入れがないと、遺骨が混じっているオブジェやペンダントなど持ちたくないだろうし、かといって処分もできないんじゃないかと心配になる。
永代供養墓というのが近年急速に増え、『お墓に入りたくない人 入れない人のために』によると、全国に500ヵ所くらいあるという。
私は永代供養墓とは、骨壺を永代に預かってくれるのかと思っていたら、そうではない。
「期限を区切り、個別に骨壺に入れて供養し、その後は遺骨を骨壺から出して「合祀」するという方法をとるケースが主流です。しかし、最初から「合祀」するところや、文字通り「永代に」骨壺で安置するところもあり、一概にはいえません」
たいていの寺院墓地には合葬墓というか合祀墓(絶えた家の骨を納めるとこ)があって、多くの寺は檀家でなくても頼めば納骨させてくれるはずだ。
これだって永代供養墓(真宗では永代供養とは言わないが)である。
永代供養墓というのは、そういうネーミングをつけ、一体10万円とか宣伝しているところを指していると思う。
ちなみに、遺骨の全部を受け入れて納骨してくれる本山がある。
東西本願寺、知恩院、延暦寺、四天王寺などで、いずれも数万円。
『お墓に入りたくない人 入れない人のために』に、立川談志氏の「死んだ後に自分の骨をこうしてくれというのは、結局、この世に未練があるからだと思うね」という言葉を紹介しているが、まさにその通りである。
散骨とか永代供養墓とか、結局は骨をどう処分するかという問題だと思う。
日本人は骨に対する思い入れが強く、骨=死者と考える。
今までは墓に納骨するのが当たり前だったが、あんな暗いじめじめしたところはイヤだというので、海にまこうとか、身近なところに置きたいと考える。
散骨することで自分が自然に帰るように思ったり、骨を手元に置いておくと死者が身近にいるように感じるわけで、骨=死者である。
散骨や手元供養、そして墓への納骨も骨へのこだわりという点では同じ。
骨=自分をどう処分するかに頭を悩ますわけである。
しかし、死んだら骨になるわけではないし、墓に納骨しても死者が墓で暮らすわけではない。
立川談志氏の言うように、生きている者のこだわりである。
東日本では火葬した骨はすべて骨壺に入れて持ち帰るが、西日本では一部の骨しか骨壺に入れない。
では、残された骨はどうなるのか。
骨や墓についてはあれこれ言う人は珍しくないが、火葬場に残した骨を気にかけている人に私は会ったことがない。
このことは骨自体がどうのこうのということではなく、生者の思いにすぎないことのあらわれだと思う。
で、徳留佳之氏によると、「火葬場でストックされた遺骨は専門の業者に委託され、業者は副葬品などの残滓を選別後、遺骨だけを粉末にし、受け入れてくれるお寺で供養してもらい、そこで土に還される」そうだが、「すべてがお寺で供養されているかどうか疑問です。真偽のほどは定かではありませんが、肥料として活用されているという話や、溶鉱炉で処分されているという話もあります」とも書いている。
小谷みどり氏によると、
「ちなみに、遺族が火葬場に置いてきた遺骨や残骨は、産業廃棄物として処分される」ということで、今度、火葬場に行く機会があったら聞いてみようと思う。
山の麓にある田舎の墓地だと、小さな墓石がいくつもあって、その横に新しく建てた○○家の墓があることが多い。
先祖代々の墓ということである。
ところが、都会に出てくると、家とか先祖をあまり考えない。
それでも家族が亡くなれば墓を新しく建てるなり、故郷の墓に納骨するのが当たり前だった。
ところが散骨などの自然葬は、家単位ではなく、家族それぞれが自分の骨の処分方法を選ぶことである。
なぜ散骨するのかというと、
1,自然に帰る
2,子どもに負担をかけたくない、もしくは子どもがいない
ということらしい。
散骨が知られるようになったのは「葬送の自由をすすめる会」の活動によってである。
『お墓に入りたくない人 入れない人のために』によると、「葬送の自由をすすめる会」の趣旨は、墓苑建設のために自然が破壊されること、墓を作るために費用がかかる、そして何よりも死者を葬る方法は自由に決められるべきだということらしい。
「葬送の自由をすすめる会」では、単に骨をまくのではなく、「自然の摂理にかない、自然環境を守る葬法」を自然葬と呼んでる。
骨粉を水槽に混ぜて魚のエサにする、庭や鉢植えに混ぜて肥料とする、穀類に骨粉を練り込んでダンゴにしたものを野鳥にあげる、といった自然葬を徳留佳之氏は紹介している。
これはチベットの鳥葬と同じ趣旨だが、ちょっとなあと思う。
散骨も演出が必要だそうだ。
「ヘリコプターによる空からの散骨も実施していますが、実際にやってみると海に流す場合とは異なり、あっという間に消えてしまって実感がわかず、実施も数例のみだそうです。セレモニーが本業の立場からすると、演出がしにくい面もあるようです」
「演出」という言葉がこういうところに使われるのはいい感じがしない。
海への散骨は262,500円、ヘリコプターでの散骨は525,000円。
遺骨を埋めて墓標の代わりに樹木を植える樹木葬は50万円。
桜の木のもとに納骨する桜葬(「桜葬」は登録商標だそうです)は、個別区画だと30万円と環境保全費の20万円。
墓に納骨したり散骨する以外にも、バルーン宇宙葬、人工衛星の宇宙葬、ニーム葬、花火葬、月面葬、フリスビー葬、珊瑚葬、絵画葬、肥料葬などなどがあるそうだ。
手元供養というのもある。
「手元供養とは、遺骨の一部をオブジェなどに納めて自宅に置いたり、ペンダントやブローチなどに収納・加工して身につけやすい形にすることで、身近で供養しようとする方法です」
室内に飾ることを前提としたプレートや置物といった「卓上型」製品、ペンダント、指輪、数珠のように、身につけるタイプの「手元型」製品がある。
しかし、手元供養する人が死んだら、それらの品をどうするのだろうか。
死者への思い入れがないと、遺骨が混じっているオブジェやペンダントなど持ちたくないだろうし、かといって処分もできないんじゃないかと心配になる。
永代供養墓というのが近年急速に増え、『お墓に入りたくない人 入れない人のために』によると、全国に500ヵ所くらいあるという。
私は永代供養墓とは、骨壺を永代に預かってくれるのかと思っていたら、そうではない。
「期限を区切り、個別に骨壺に入れて供養し、その後は遺骨を骨壺から出して「合祀」するという方法をとるケースが主流です。しかし、最初から「合祀」するところや、文字通り「永代に」骨壺で安置するところもあり、一概にはいえません」
たいていの寺院墓地には合葬墓というか合祀墓(絶えた家の骨を納めるとこ)があって、多くの寺は檀家でなくても頼めば納骨させてくれるはずだ。
これだって永代供養墓(真宗では永代供養とは言わないが)である。
永代供養墓というのは、そういうネーミングをつけ、一体10万円とか宣伝しているところを指していると思う。
ちなみに、遺骨の全部を受け入れて納骨してくれる本山がある。
東西本願寺、知恩院、延暦寺、四天王寺などで、いずれも数万円。
『お墓に入りたくない人 入れない人のために』に、立川談志氏の「死んだ後に自分の骨をこうしてくれというのは、結局、この世に未練があるからだと思うね」という言葉を紹介しているが、まさにその通りである。
散骨とか永代供養墓とか、結局は骨をどう処分するかという問題だと思う。
日本人は骨に対する思い入れが強く、骨=死者と考える。
今までは墓に納骨するのが当たり前だったが、あんな暗いじめじめしたところはイヤだというので、海にまこうとか、身近なところに置きたいと考える。
散骨することで自分が自然に帰るように思ったり、骨を手元に置いておくと死者が身近にいるように感じるわけで、骨=死者である。
散骨や手元供養、そして墓への納骨も骨へのこだわりという点では同じ。
骨=自分をどう処分するかに頭を悩ますわけである。
しかし、死んだら骨になるわけではないし、墓に納骨しても死者が墓で暮らすわけではない。
立川談志氏の言うように、生きている者のこだわりである。
東日本では火葬した骨はすべて骨壺に入れて持ち帰るが、西日本では一部の骨しか骨壺に入れない。
では、残された骨はどうなるのか。
骨や墓についてはあれこれ言う人は珍しくないが、火葬場に残した骨を気にかけている人に私は会ったことがない。
このことは骨自体がどうのこうのということではなく、生者の思いにすぎないことのあらわれだと思う。
で、徳留佳之氏によると、「火葬場でストックされた遺骨は専門の業者に委託され、業者は副葬品などの残滓を選別後、遺骨だけを粉末にし、受け入れてくれるお寺で供養してもらい、そこで土に還される」そうだが、「すべてがお寺で供養されているかどうか疑問です。真偽のほどは定かではありませんが、肥料として活用されているという話や、溶鉱炉で処分されているという話もあります」とも書いている。
小谷みどり氏によると、
「ちなみに、遺族が火葬場に置いてきた遺骨や残骨は、産業廃棄物として処分される」ということで、今度、火葬場に行く機会があったら聞いてみようと思う。