三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

西田幾多郎と家族の死 2

2010年10月08日 | 
西田幾多郎は身内や友人、知人、弟子を親身になって世話をし、尽くした人である。
明治43年に友人の藤岡作太郎が死ぬ。
手紙に、「公にして当世比なき一文学史家を失ひ、私にして二十五年来の親友を失ひし事、悲哀の念に不堪候」と書いている。
西田幾多郎は藤岡作太郎の未亡人や子供のために教育資金を募集した。
それまでにも、またそれ以降も、友人が死ぬと遺族のために募金をすることを何度もしている。

また、感受性が強いというか、喜怒哀楽の激しい性格で、心配性らしくて家族には過干渉と思えるほど世話を焼きたがる。
孫の上田久氏は『祖父西田幾多郎』に、「祖父は肉身の、特に弱いものに対しては過度に見える程保護しようとした。自分以外には誰もいないという気持ちからか、そうせずにはいられなかったらしい」と書いている。
時にはうっとうしく感じることもあったそうだ。
しかし、だからこそ西田幾多郎は家族や友人が死ぬたびに大きな衝撃を受けた。

西田幾多郎は最後まで執筆を続けているのだが、絶筆は「私の論理と云ふのは学界からは理解せられない、否未だ一顧も与えられないと云つてもよいのである」という愚痴である。
上田久氏の兄は「(祖父は)死ぬまで悟り切った枯淡といった境地にいかなかったことに、むしろ心をひかれ、なつかしさを感ずる」と書いている。

夏目漱石が死ぬ一ヵ月前に、松岡譲ら弟子たちに則天去私についてこんなことを語ったと、「漱石山房の一夜―宗教的問答」(『漱石先生』)にあるそうだ。(『漱石先生』は未見です)
「例へば今こゝで、そこの唐紙をひらいて、お父様おやすみなさいといつて娘が顔を出すとする。ひよいと顔を見ると、どうしたのか朝見た時と違って、娘が無残やめつかちになつて居たとする。年頃の娘が親の知らぬ間にめつかちになつた。これは世間のどんな親にとつても大事件だ。普通なら泣き喚いたり腰をぬかしたりして大騒動をするだろう。しかし今の僕なら、多分、あゝさうかといつて、それを平静に眺める事ができるだろうと思ふ。」
私達はこれを聞いてびつくりした。異口同音に、「そりゃ、先生、残酷ぢやありませんか。」と言つた。すると主人はなほも静かに、「凡そ真理といふものはみんな残酷なものだよ。」と穏やかに答へて続けるのだった。
「一体人間といふものは、相当修行をつめば、精神的にその辺迄到達することはどうやら出来るが、しかし肉体の法則が中々精神的の悟りの全部を容易に実現してくれない。頭の中では死を克服出来たと信じて居ても、やつぱり其場になつたら死ぬのはいやだろうよ。それは人間の本能の力なんだね。」
―すると悟りといふのは、その本能の力を打ち敗かすことですか。と誰かが尋ねた。
「さうではあるまい。それに順つて、それを自在にコントロールする事だらうな。そこにつまり修行がいるんだね。さういふ事といふものは一見逃避的に見えるものだが、其実人生に於ける一番高い態度だらうと思ふ。」
―さうして先生はその態度を自分で体得されましたか。
「漸く自分も此頃一つのさういつた境地に出た。「則天去私」と自分ではよんで居るのだが、他の人がもつと外の言葉で言ひ現はしても居るだらう。つまり普通俺が自分といふ所謂小我の私を去つて、もつと大きな謂はば普遍的な大我の命ずるまゝに自分をまかせるといつたやうな事なんだが、さう言葉で言つてしまつたんでは尽くせない気がする。その前に出ると、普通えらさうに見える一つの主張とか理想とか主義とかいふものも結局ちつぽけなもので、さうかといつて普通つまらないと見られてるものでも、それはそれとしての存在が与へられる。つまり観る方からいへば、すべてが一視同仁だ。差別無差別といふやうな事になるんだらうね。今度の「明暗」なんぞはさういふ態度でもつて、新らしい本当の文学論を大学あたりで講じて見たい。といつて昔講じた文学論が元々意にみたないから、その不名誉の償ひを今しようといふのではない。それはそれで、すでにかいてしまつた恥であって、今更どうにも仕様がないが、かうした人生観文学観を確立して、それを人に伝へないのは甚だ相すまない次第だ」
悟りとは世界がどうなろうとも我関せず焉ということか。
うーんと思ってしまうが、夏目漱石の妻や子どもが書いたものを読むと、一緒に暮らすには大変な人だったらしいが。

徳留佳之『お墓に入りたくない人 入れない人のために』に、「ひろさちやさんによれば、本来の仏教も「死者が幸福になるためには死者を忘れることと教えているそうで、逆説的かもしれませんが、死者をしっかり忘れてあげることが供養の王道だとまでいっています」とある。
どこにそんなことが書いてあるのか知らないが、私としては西田幾多郎が「我が子の死」で書いている、「何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である」ということ、そして「ゲーテがその子を失った時“Over the dead”というて仕事を続けたというが、ゲーテにしてこの語をなした心の中には、固より仰ぐべき偉大なるものがあったでもあろう。しかし人間の仕事は人情ということを離れて外に目的があるのではない」ということのほうに共感を覚える。
人情はヒューマニズムだ、我執だと言う人がいて、たしかに人情だけでは救われないが、人情がなければ救われない。
そして、仏教徒が釈尊を忘れなかったからこそ、仏教が現在まで伝わっているのである。

そして「我が子の死」の最後に「いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。しかし何事も運命と諦めるより外はない。運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、心は重荷を卸した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる」とあることに、もっともだと感じずにはおれない。
漱石のようにさばさばした人もいるが、私は最後まで愚痴を言わねばおれない幾多郎派です。
コメント
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