三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

葬式と墓 3

2010年10月17日 | 仏教
家族葬のよさは何か、『よくわかる家族葬のかしこい進め方』にこうある。
「立派な葬式ほどよいと考えられ、親族だけでなく、仕事の関係者や友人・知人、地域の人に広く知らせるのが一般的でした。参列する側も、義理を重んじ、少しでも故人とかかわりがあれば駆けつけるのが礼儀とされていました」
「家族葬では故人をよく知る人だけが集まるため、形式にとらわれず、ゆっくりと故人とのお別れができるのが特徴の1つです」
「従来の葬儀のように参列者や手伝いの人などが大勢いると、悲しむひまもないほど対応や式の進行などに追われ、心身ともに疲れ果てることが多いものです」
「その点、家族葬に参列するのは故人をよく知り、心から冥福を祈る人ばかりですから、思い出話などをしながら、悲しみを共有することで心が癒され、心身の負担も少なくてすみます。
これまでの葬儀は、社会的な営みとして、昔ながらの家制度を基盤に行われてきましたが、家族葬では、家族愛や故人の遺志が中心となっているといえるでしょう」
と、いいことづくめ。

たしかに、義理で知らない人の葬式に参ったり、高額の布施を言われるままに出したりするという、今までの葬式のあり方にも問題はある。
だけど、ここで語られていることは、共同体の崩壊、地域のつき合いや人との関係の希薄さということだと思う。
葬式は相互扶助ということがあって、村八分のうちの二分は火事と葬式だと言われているように、葬式をすることは大変なことなので、近所の人が手伝うのが当然だった。
ところが、近所づきあいが薄れ、葬儀屋がすべてを仕切るようになり、葬式が簡略化すると近所の人に手伝ってもらう必要がなくなった。
そういう流れの中で、誰がつけたのか知らないが家族葬という名前が生まれたんだと思う。
でも、もしも私の親戚や知人が死んだとして、そのことを教えてもらわなかったら、何か気に障ることをしたから連絡してもらえなかったのではと気になるし、今後のつき合いをどうしたらいいかと頭を悩ますことになる。
家族葬だから知らせないということは、つき合いを絶ってもいいと言ってるようなものだと思う。

葬式をしなくても火葬だけはしなければいけないので、家族が死ぬとどうしても業者に頼まざるを得ない。
家族葬にしても、「家族愛や故人の遺志が中心と」と言いながら、葬儀社主導のように感じる。
葬儀社の敷いたレールに乗ってしまうわけである。

家族葬でも仏式で行うことが多いが、無宗教式が増えているという。
『よくわかる家族葬のかしこい進め方』に、「最近は、菩提寺をもたない家が多く、葬儀のときだけ知らない寺院に依頼することに抵抗を感じる人もあり、「あの世」に対する意識の変化とともに、寺院離れが進んでいるといわれています」とある。
つき合いのない坊さんにわけのわからない戒名料を払うことに抵抗を感じるのはわかる。
しかし、「無宗教式では、葬祭業者の企画力やセンスが大きく問われます。手間を惜しまず、複数の葬祭業者に電話をしたり会ったりして、相性のよい担当者を探しましょう」と言われると、何か商売っ気が感じられてイヤだなと思う。

アホらしいと思ったのがお別れ会。
「故人の生前の希望や遺言によって葬儀を小規模なものにしたり、近親者だけの内輪で行う家族葬も増えてきました。なかには葬儀そのものを行わないケースもあります。
このような場合に、後日、友人・知人や葬儀に出席できなかった親戚などを招いて、故人の身内が催すのが遺族主催のお別れ会です。生前、親しくつきあってきた人たちと永遠の別れをする場をもたせてあげたいという、遺族の思いを形にしたものといえます」
こういうのを読むと、家族葬とかお別れ会といっても、結局は葬儀屋の新しい商売かと思ってしまう。
家族葬や直葬をして、それとは別にわざわざお別れ会をするのなら、最初から友人、知人に来てもらって葬式をちゃんとするべきだ。

そもそも、家族葬といっても、近所の人や知人に知らせないのから、兄弟、親戚にも伝えないというのまでさまざまで、参列者の人数も一人から数十人までいろいろ。
どうしてわざわざ家族葬という名前にするのかと思う。
『よくわかる家族葬のかしこい進め方』は遺族のお気持ちがどうのこうのと言いながら、死者に対して何かしてあげたいという遺族の弱みにつけ込んで、家族葬とかお別れ会というネーミングをつけて、不必要な新しい商品を紹介しているように感じた次第です。
コメント (5)
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