三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

五年生 私の還らぬ灼熱(あつ)い夏 7

2010年09月23日 | 戦争
 それからの数日は捜索の当てもなく、祖母宅裏の背戸に出て淋しさに耐える無為な時間を過ごした。祖母もあまり話をしない。慰めを口に出せば、それがまた新しい悲しみを呼ぶ事はよくわかっていたのだ。二人の間にはその事以外には通じる話題があるはずがない。お互いに押し黙り、失意の日を繰り返し、ただ待つことだけのつらい日を送っていた。

 被爆から五日後に、妹と叔父が相次いで避難してきた。それぞれ顔と上半身に火傷や怪我をして、ボロボロの布切れをまとい、口も利けないほどの疲れようだった。それでも命にかかわる程の重症ではなかったので、お互いが肉親に逢え、自分が一人ぼっちでない事を喜び安堵した。

 妹(小学一年生7才)は登校途中の路上で被爆したらしい。前後の記憶は曖昧だったが、気が付いた時には沢山の人と一緒で川土手にいたそうだ。被災後の全市を焼き尽くした大火から助かるには川の近くに逃げる以外にはなかった。
 身寄りのいない幼い女の子を心配した小母さんが面倒をみてくれたそうで、おぼろに憶えていた祖母の住まいと名前を聞き出してくれたそうだ。その方向へ行く人に託され連れられてきた。あの惨禍の中で妹がよく思い出したのと、自分の身を守るのが精一杯の時に、他人の子の面倒を厭わなかった方に深謝したい。

 叔父の火傷の手当ては大変なもので、首から肩、腕から手の甲にかけて皮膚が灼(や)け落ち、赤く腫れ、化膿して異臭を放つ。手当てをしようにも薬がない。祖母が近所から聞き付けて来て、胡瓜やじゃがいもを摺りおろして傷口に貼りつける。それ以外には手当てのしようがなかった。
 摺りおろした胡瓜を布に延ばして傷に貼るのだが、取り替える度に傷口に蛆が這っている。割り箸で一匹ずつ摘み取って、水で洗い流して貼り替える。生きた人間に蛆がわく、こんな事が信じられますか。
 油断していると、傷口に蝿が止まって卵を産み付けたり、傷口をなめるそうだ。すると傷口がヒリヒリと痛むらしい。生身の人間としてこれ以上の屈辱はないだろう。

 残る家族五人の消息は依然として不明のままだったが、まだきっと誰かが尋ねて来る。望みと確信で待ち続けたが、日を重ねる毎に望みは不安と焦りになり、絶望の淵へと沈んでしまった。捜索の手は尽くしたが、被爆後一ヵ月余りを経て消息は何一つとしてつかめなかった。あの日の強烈な閃光で一瞬に灼(や)かれ、一条のけむりと化し、天に駆け昇ったのだろう。

 悪魔に魅入られた兵器。一発の核爆弾で一瞬にして我が故郷「ヒロシマ」の街を焦土と化し、数多くの人命と全ての生物をあのきのこ雲と共に天高く吹き上げ、真っ黒い雨と共に地上に叩きつけたのだ。あの一機の爆撃機B29エノラゲイ。エノラゲイの名を忘れる事はないだろう。

 私と妹の二人だけが生き残り、父と姉弟五人が行方不明のままで、焼け跡から遺骨も出ず、昭和20年10月22日に行方不明のままで市役所に届け出た。

昭和20年8月6日午前8時15分本籍地にて被爆死。(五人共同じ)

 被爆五十回忌を期に、五人の死は確認出来ないまま、心にわだかまっていたものを整理して、やっと墓石に名を刻み、法要をすませ、私の戦後に終止符をうった。

 母と祖母の二人は被爆の惨禍を知らず、家族に見守られてねんごろに弔われた。遺骨の一片も残す事が出来ず被爆死した家族五人より、今となってはある意味で幸せだったのかとも思う。

 叔父は昭和25、6年頃に別居して、しばらく後、入院。未婚のままで昭和31年に亡くなった。死因は内臓疾患と聞かされた。妹と二人だけで通夜と葬儀を営んだ。

 被爆者に限らず、第二次世界大戦で数多くの尊い犠牲者を出し、その犠牲者によって支えられた今日の平和を忘れてはならない50年前の「ヒロシマ」「ナガサキ」を二度と繰り返す事のないよう祈る。
 1995年8月記                         八木義彦
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