藤田庄市『宗教事件の内側』によると、「献金することが自体が宗教的実践行為であり、一種の修行と位置づけている宗教団体も多い」そうだ。
たしかに天理教では信心とは献金と伝道(信者を増やすこと)、創価学会では寄付と弘宣(これも入信させること)だと説く。
信心が質ではなく、量で判断されているわけだ。
それにしても、「[宗教ガイドライン]に対する見解」を書いた人は、「物欲を離れる体験を得させるためには、しばしば当人が無理だと感じるほどの金額であることが必要になる場合がある」と本気で信じているのだろうか。
教団は「当人が無理だと感じるほどの金額」を何に使うのか。
執着するなと説いて寄付を強要するんだったら、自分の教団ではなく他の教団や福祉などに寄付してもいいはず。
また、「布教の際に必然的に過去世からの因縁を説いたり、また病気や経済苦を克服するには当該宗教の信仰によるしかないとの説明がなされることはごく自然のこと」だとしたら、霊感商法や霊視商法を批判できない。
私に言わせたら、「過去世からの因縁」や「病気や経済苦を克服するには当該宗教の信仰によるしかない」と説く宗教は、自らインチキだと公言するようなものだ。
霊視商法で解散命令が出された明覚寺の西川義俊は地裁判決後、被害者弁護団から「ほかの伝統宗教や新興宗教と明覚寺の宗教活動を比べて差異があるか」と尋ねられ、こう答えている。
「宗教において詐欺行為が成立するかどうか、それをもし認めるとするならば、おそらく全宗教は詐欺になると思います。いかなる宗教も、自分の独自の教義を述べ、その優越性を述べ、その法力を述べて、名目の如何にかかわらずお金をいただいているわけですから、一つイチャモンつけたら全部潰せる。今は、その宗教不信の時代ではないかと思っております」(藤田庄市『宗教事件の内側』)
京都仏教会は西川義俊の言葉にどういう反応を示すのかと思う。
2006年に開かれた統一教会系の大集会に、安倍晋三、中川秀直、保岡興治、羽田孜、上田清司ら政治家が祝電を贈っているそうだ。
西川義俊は真言宗醍醐派で修行し、真如苑や阿含宗の教祖も醍醐寺で得度している。
福永法源は生長の家、自然の泉の信者だったし、ワールドメイトの深見青山は世界救世教、大本の信者だった。
麻原彰晃は阿含宗に入信、新実智光は崇教真光、阿含宗を経てオウム真理教、中川智正と林郁夫も阿含宗の信者。
彼らは宗教遍歴しながら現世利益、輪廻、前世体験、神秘体験、そして教団経営のノウハウ(修行のマニュアル化、短期間の修行、新聞広告による書籍販売など)を自らの教団に取り入れている。
豊田商事事件の永野一男は親鸞会の信者だった。
「商売の基本に仏法を据えているんです」、「商売に仏法を使と儲かるんです。大体、病気にかかったり悩んだりする人間は、欲の多い金持ちばかりです。そいつらを相手にしたら、金に糸目をつけないので、ええ金儲けになると。五億円かけて造りました。あわせて仏法も説きたい」(藤田庄市『宗教事件の内側』)と語った永野一男は、宗教施設を高層ビルのワンフロアを使って作ったそうだ。
コニー・ウィリス「インサイダー疑惑」(『マーブル・アーチの風』所収)は、霊媒やチャネラーのインチキを暴く雑誌の編集者が主人公(超常現象懐疑派)である。
言うまでもなく霊媒やチャネラーは金儲けが目的の詐欺師である。
もっとも、「布教の際に必然的に過去世からの因線を説いたり、また病気や経済苦を克服するには当該宗教の信仰によるしかないとの説明」をする京都の僧侶たちは、霊媒を詐欺師だとは思わないだろうが。
で、懐疑主義商売には三つの基本法則があると、主人公は言う。
第一の法則は、「とてつもない主張にはとてつもない証拠が必要」
第二の法則は、「現実とは思えないほどすばらしいことは、たぶん現実ではない」
第三の法則は、「自問せよ、向こうはこれでどんな利益を得るか?」
これはインチキ宗教を見分ける基準にも使える。
でも、どういうことが「とてつもない主張」なのか、人によって違っている。
人間が空中に浮かぶこと、先祖の霊が災いをもたらすこと、前世の行いの報いを受けることなど、私には「とてつもない主張」なのだが、京都仏教会の人たちのように「ごく自然のこと」と考える人も多いだろう。
先祖の霊については孔子の次の答えが正しいと思う。
子貢が孔子にたずねた。
「死人は意識をもつものでしょうか。それとも何もわからないものでしょうか」
孔子は答えた。
「死人に意識があると言ったら、自分の生活を犠牲にしても盛大な葬式をするおそれがある。かといって、死者に意識がないといえば、不心得者の子孫は親の葬式をしないで野に捨ててしまうだろう。だから、私はどちらとも言えぬ。もしお前がどうしても知りたいと思うなら、死んでからゆっくり実見してみるがよい」(劉向『説苑』)
この問答は実際にあったことではなくて作り話らしいが、釈尊の説法と通じる話である。
路上生活者の永原健二氏は次のように語っている。
「みんな信じたいって思っていても、宗教がどこにあるのか、どうして入ればいいかが分からない。宗教家は独りよがりしているけど、宗教はなんの普及もしていないで。ええ宗教だったら証明して、自分がその生き方をして、みんなを入れて幸せにしてあげるのが宗教家や。なんにも言わんし、どこにどんな宗教があるかも知らん、世の中のやつは」(『貧魂社会ニッポンへ』)
もっともな意見である。