レッサーパンダの帽子をかぶった男が19歳の女性を殺した事件が2001年にあった。
この男は軽い知的障害と自閉症だった。
一審では検察の求刑どおり無期懲役の判決、被告自身が控訴を取り下げて刑が確定した。
『自閉症裁判』は裁判の傍聴記、そして被害者遺族、弁護人、加害者の家族や関係者などに取材している。
被害者の両親や親戚の方の言葉は重たい。
悲痛な気持ちが伝わってくる。
だけども、無期懲役は重すぎると思う。
加害者は人との会話がうまくできず、人が言っていることもあまり理解できないらしい。
『自閉症裁判』を読むと、警察の取調には問題があるし、自白調書は警官の作文だし、裁判長は被告がどういう人間かわかっていながら厳罰を科したように感じる。
「(受刑者のなかに障害を持つ人が多くいる事実)ここにあるのは何か。福祉の支援からこぼれ、家族も離散し、あるいは家出し、食い詰め、追い込まれた挙句の愚行である。刑務所を出所しても引き取り手はない、戻る場所もない、働き手として雇ってくれるところもない。ホームレスまがいの暮らしを余儀なくされるなかで、再び同様の行為をして刑務所に戻っていく。
ここから窺われることは、まぎれもなく、知的なハンディをもつ人たちが、事実関係をうまく語ることのできないまま自白供述を取られ、裁判に乗せられ、覚束ない証言のままに刑務所に送られていく、という現実である。そして福祉が支援の手を差し伸べてこなかったという現状である」
「裁判所が供述調書の証拠採用を可としたことに対し、弁護人は、その後も異議を申し立てていくのだが、すべて棄却された。知的ハンディや発達障害をもつ人びとの刑事裁判では、それはいまだ超えられずにいる高い高いハードルである」
大石剛一郎弁護人はこのように判決を批判している。
「大衆感情がどうであれ、マスコミがどんな報道をしようと、警察の取調べにわずかでも疑問があれば法理を通す。どのように「凶悪」な被告人であれ、法廷ではあくまでも法理に沿ってその罪が裁かれる。刑事裁判とはそのようなものだ、という気概がかつての裁判所にはあった。いま、それを失くしつつある。それができなければ、もはや裁判ではない。(略)
今回の判決で裁判所が判断を示さず、意図的に避けたものが多くある。(略)
なんのためにこうした点に関する判断を避けたのか。とにかく重い刑を課す、その目的の達成だけを目指したものだからだ、と言わざるをえない。(略)
この判決の意味はなにか。被告を「社会から永久に排除せよ」ということに尽きる」
副島洋明弁護人は次のように言っている。
「私たちの冒陳は、その最後を次のような言葉で終わっている。「私たち弁護人は、この裁判の場がその反省と責任を被告人に自覚させ、感銘させる教育的更生の場であるべきだと考えている。この裁判の審理においては、被告人自身、自らの行為についての自己反省の〝裁きの場〟となるよう、強く要請したい」と。
はたして被告人の彼にとって、この裁判はどのような裁判であったか。私たちのいう〈反省と責任を自覚させる教育的更生の場〉となったといえるのかどうか。私たちはこの点においても、彼にとってこの3年の裁判の意義は大きかったと強く感じている」
そして、こうマスコミ批判している。
「長い時間をかけて裁判所に問いかけてきたいくつもの争点があったのに、その重要な点は、一部の新聞を除いてまったく報じていなかった。三年半前も、警察と一体になった虚偽報道をに終始したが、今回の判決も事件の真相や背景、裁判の争点について、なんの取材もなく、弁護人からすれば、よくこんな記事を書いて報道できるなとあきれてしまう」
被害者はもちろん、加害者や家族も被害者ではないかと感じる。
加害者は父親から虐待され、学校ではいじめらつづけ、就職すると職場で凄惨ないじめに遭う。
おまけに父親は知的障害で金銭感覚がなく、母親は高校三年の時に死亡している。
悲惨なのが妹は13歳の時に母が死んでからは家計を支えるために働き通し、21歳でガンになり、事件の時には末期だった。
妹の「これまで生きてきて、何も楽しいことはなかった」という言葉には絶句するしかない。
この家族には福祉の手がまったく差し伸べられていなかった。
見捨てられていたわけである。
この惨状を知った障害者支援グループが生活支援に乗り出す。
「はじめは誰にも心を開かなかったあの娘がな、声をあげて笑うようになったんだ」
しかし、妹は「自分はいま、事件が起きたことによって転機が訪れ、生涯で最も充実した時間を送らせてもらっている。でもこの生活は、亡くなった女性の犠牲の上に成り立っているのでは」という後ろめたさを持っていたそうだ。
なんともため息の事件、そして裁判である。