三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

死刑について考える6 被害者感情

2008年01月19日 | 死刑

テレビの討論番組で、「被害者は厳罰を求めている」とか「どういう判決を下すかは被害者が決めればいい」といった意見を言う人がいた。
こういう番組では極端なことを言ったほうが受けるということはあるにしても、拍手をする人が多かったのには驚く。
被害者の気持ちといっても単純ではないだろうし、被害者感情で裁くのでは公正さを欠いてしまうのに。

家族を殺された遺族にとっては計画的な殺人であろうと、衝動的であろうと、傷害致死であろうと、愛する者を失った喪失感、怒りに違いはない。
しかし、心の傷は一人ひとり違うし、受け止め方もさまざまである。
また、人間の気持ち、考えは人との関わりや時間の経過などによって変化するものである。
だから、被害者のすべてが厳罰を求めているわけではないと思う。

そんなことを言うと、自分の家族が殺されても「死刑は反対だ」と言えるかと反論される。
しかし、妻と娘が殺されたにもかかわらず、死刑反対を主張した弁護士がいる。
磯部常治という人である。

1956年1月18日、銀座の磯部法律事務所に別府とし男(「とし」は人偏に府)が忍び込み、磯部常治弁護士の妻と次女を殺害、現金わずか800円と日本刀を奪って逃走し、2日後に自首。
磯部弁護士は熱心な死刑廃止論者で、「被疑者が望むならいつでも弁護に立つ」と語って大きな反響を呼んだ。
11月20日、東京地裁で死刑判決。
控訴せずに死刑が確定した。

事件後の1956年5月10日、死刑廃止の是非についての参議院の法務委員会公聴会で、磯部氏はこう語っている。
「抽象的に申しますならば、私はやはり死刑廃止に賛成なんであります。廃止論者なのであります。これは、先ほど委員長のおっしゃった一月の妻子の、私の被害者の立場、現実に被害者の立場になった、その身になっても、なお私は死刑は廃止すべきだという論なんであります」

正直なところ、こういう人は稀だと思う。
しかし、特別だというわけではない。
「私はここにわが国でのもう一つの例を挙げておかなければならない。それは、一九八〇年に富山県と長野県で起きた連続誘拐殺人事件の被害者の一人、陽子さん(当時一八歳)の母親長岡瑩子さんのことである。瑩子さんの悲憤はやるかたないものであったが、カトリック修道女ネリーナ・アンセルミさんの影響もあって、ついに犯人を憎み続けることに耐えられなくなり、犯人を赦したほうが子供も救われるのではないか、と思うようになったという」(団藤重光『死刑廃止論』)

弟さんを殺された原田正治さんも、一審では「極刑を」と証言したが、その後「死刑にしないでほしい」という上申書を最高裁に出されている。
このように、最初は死刑を求めていても、考えが変わってくる遺族もいるのである。

あるいは、2006年8月に福岡市で起きた飲酒運転で3児が死亡したお母さん。
検察の供述調書の中で、
「絶対に(同罪とひき逃げを併合した最高刑の懲役)25年の刑が下されることを確信しています。1年でも短ければ犯人を私が殺します」
と訴えた。(2007年9月4日 読売新聞)
しかし、危険運転致死傷罪が適用しないとされたため、懲役25年の刑になることはなくなった。
福岡地裁判決を前に、
「出た答えがその答えなら受け止めようと思う」とした上で「(懲役25年を)願っているが、その結果が出なくても、日々を恨みや憎しみの中で生活することはない」
と話されている。(毎日新聞2007年12月29日

人間というものは憎しみや怒りを持ち続けて生きることなどできないんだと思う。
また、私たち第三者は加害者に対して、罪の報いを受けるべきだ、被害者が感じた苦しみよりもたくさんの苦しみを与えるべきだ、文字通りに「目には目を、歯には歯を」を実行すべきだ、そのことで被害者は癒されると考えがちである。
しかし、そういう単純なものではないらしい。

スコット・トゥローは『極刑』でこう書いている。
「私が聞いた限りでは、殺人者に殺される恐怖を味わわせて、単なるおぞましい仕返しをするために、あるいは、だれか別の者の苦悩を目にすれば自分たちの悲しみはあがなわれるといった、生け贄の祭壇の論理から、遺族は犯人の処刑を待ち望んでいるのではない。彼らが追求する正義とは、損害賠償の考え方と似ている。つまり、犯人は被害者よりも幸せにその生涯を終えるべきではないという思いである。遺族にとっては、これほどの苦難をもたらしておいて、その犯人はいまだに実在の、多くの小さな幸せを味わっており、その意味では、犯人やその家族の暮らしが被害者や遺族の暮らしよりもましであることが、常識をはずれた、腹立たしいことに思えるのである」

本村洋さんにしても単に報復したいから死刑を願っているわけではないように思う。
本村洋さんは死刑を求める理由として次のように言われている。
「自分の犯した罪と向き合って人の心を取り戻し、本心から反省してほしい」
「自分の死刑をも受け入れられるようになってこそ、犯人が真人間になったといえる」
「ただ私は一度も反省をしていない被告人に死刑を課したいと言ったことはないと思います。彼が悔い改めて自ら犯した罪を反省して納得して胸を張って死刑を受け入れることに、私は意味があると思ってます」

本村さんとしては、被告が自分の罪を心から反省するようになり、真人間になったら死刑を執行してほしい、つまり死刑とはある種の教育刑だという考えだと思う(教育刑の理念からすると矛盾しているし、私は賛成できないが)。
だから、被告は反省しているようには見えないと感じた本村さんは
「(この1年で反省した形跡は見られたか、という質問に)いいえ。それが非常に残念。極刑を求めるが、今の状態で死刑判決が出ても意味がない」
と言っている。

ところが、検察が死刑を求刑し、裁判官が死刑判決を下す理由は「矯正は不可能」ということである。
光市事件の被告に死刑を求める人たちも、「被告は反省なんかしない。どうしようもない奴だから死刑にすべきだ」という矯正不可能説である。
しかし、本村さんは矯正が不可能とは考えていないからこそ、被告が心から反省してほしいと願っている。
「あんな奴はさっさと吊ってしまえ」という意見は本村さんの考えとはまるっきり違っていると思う。
となると、裁判所が「矯正は不可能である」として死刑判決を出すとしたら、本村さんにとっては不本意なのではないだろうか。

「被害者は厳罰を求めている」と主張する人たちは、では被害者が満足するにはどういう刑罰を科すべきだと考えているのだろうか。
そして、厳罰さえ科したらそれで問題は解決だと思っているのではないだろうか。
赤穂浪士の家族が討ち入りのあと、どういう生活をしたのか、そんな心配をする人はあまりいないし、吉良家の人たちがどんな気持ちになったかを考えたりなどしない。
加害者が処刑されて喝采し、そして過去のこととして忘れてしまうのが第三者であり、それは被害者感情から遠いものである。

コメント (8)
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