三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

死刑について考える8 罪の報い

2008年01月25日 | 死刑

ある研修会の時、「大谷派では死刑に反対しているが、どうしてなのか。人を殺したら死刑になるのは当然じゃないか」という意見があった。
人の命を奪ったのだから、その報いとして自分が殺されるのは当たり前だとか、自分の命でもって罪を償うべきだという意見は、説得力がそれなりにある。

「報い」と「償い」、どう考えたらいいのだろうか。
「報い」と「償い」とは違うので、まず「報い」から。

「世論には、人を殺した者は殺される―死刑になる―のが当たり前だという、古来の素朴な正義論がその根底にある」
(団藤重光『死刑廃止論』)
私も、この野郎、バチが当たればいいのに、と思うことはしばしばある。
罪の報いだとか、命でもって償えということは、復讐を正当化することにもなる。

しかし、団藤重光によると、応報刑とは復讐と違うそうだ。
「復讐は本来、同等者間の個体対個体の関係において認められるべき平均的正義の観念によって支配されるが、刑法における応報は国家と犯人との間の全体対個体の関係において認められるものであって、配分的正義によって支配される」

私には難しくてわからないが、ウィキペディアの「刑罰」の項に、応報刑とは
「一定の犯罪を犯したことに対して、それに見合うだけの刑罰が当然に科されるべき」
とある。
現在の日本では、応報としての犯罪に見合うだけの刑罰とは刑務所に閉じこめてさまざまな制約を科すことだと思う。
ところが、死刑という刑罰だけが自らの肉体でもって報いを受けなければならないのはなぜだろう。
だったら、たとえば人を殴って失明させた加害者は同じように殴って失明させる、あるいは福岡の飲酒運転で三人の子供が死んだ事件では、加害者を車ごと海に落として溺れさせる、というような刑罰にすべきだという理屈になる。
文字通りの「目には目を、歯には歯を」に賛成する人はあまりいないと思うのだが。

こういう場合はどうだろうか。
・酒に酔って冗談で相手を軽く突いたら、相手も酔ってたので転んでしまい、打ち所が悪くて死んでしまった。
・女性を強姦したあと殺そうと思い、ナイフでめった突きしたが、なんとか命は取り留めた、しかし被害者は一生寝たきりになってしまった。

人を殺したら必ず死刑というのなら、前者の場合は死刑になるのだが、いくら何でも厳しすぎるように思う。
情からすると後者のほうが罪が重いと感じる、被害者が死んでいないのだから死刑にはならないことになる。

罪の報いということもそりゃ大切ではあるが、それよりも犯罪者の教育、更生、そして赦しについて考えるべきだと思う。

コメント (2)
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