被害者の声を聞くことは大切である。
そして、被害者の声は重い。
たとえば、
「殺人犯が生きている限り、犯人に関することを耳にし続けなければいけないという現実があり、そのため被害者遺族は、本当の「事件の終結」、つまり、悲しみに終止符を打つための最後の法的手段を繰り返し求めているのだ。破棄されることのない結末となりうるのは処刑だけだ、と彼らは主張する」(スコット・トゥロー『極刑』)
という主張に被害者ではない人間が反論するのは難しい。
だけど、ちょっと待てよ、とも思う。
どんな罪状であろうと、あるいは情状酌量の余地があろうとも、遺族が極刑を求めたら死刑判決が下されるということになっていいものだろうか。
それでは裁判所が復讐を認めることになり、仇討ちの場になってしまう。
さらには、遺族に判断をゆだねたら、被告が無実であっても、遺族が有罪だと信じ、極刑を強く望むことで、無実の人に死刑判決が言い渡されることも起きてくるだろう。
「無実の者が処刑されるという「犠牲」において、被害者側の感情を満足させることは、正義の見地から言っても、とうてい許されることではありません」(団藤重光『死刑廃止論』)
そして、公正さが欠けるという問題がある。
被害者遺族が強く極刑を望むなら、「遺族感情への配慮」によって死刑判決が下され、本来は死刑に相当しない事件でも死刑になってしまうこともある。
しかし、被害者や遺族の考えはさまざまで、生きて償ってほしいと考えている遺族もいる。
だから、被害者の意向を判決に反映させると、同じ罪を犯しても無期懲役になったり死刑になったりと、無原則にならざるを得ない。
それでは同様の犯罪では同様の判決を受けるという基本的な観念に反することになる、と団藤重光は言っている。
また、遺族の気持ちは時間の経過とともに変化する。
養父と妻を殺害したとして、一審と二審で死刑判決を受けた大山清隆被告の長男は一審では、「父さんはもし僕が父さんの犯行に気づいていたら母さんと同じように殺していたのか。許せない」と書いて、そのことが死刑選択の一理由とされたそうだが、二審では「僕の大切な父さんを死刑にしないでください」という上申書を提出している。
こうした場合はどうするのだろうか。
あるいは、遺族がいない場合、沈黙を保っている場合はどうなるのだろう。
「遺族に悲しみや損失を与えるのだから、そのことに対する責任はあるではないか、といわれるかもしれない。しかし、それならば悲しむ遺族がいない人は殺してもよいのだろうか。もしそうとすれば、今日しばしば起こるホームレス殺人は是認されてしまう」(末木文美士『仏教vs.倫理』)
被害者感情で裁くとしたら、こういう理屈になる。
それに、殺人事件の約半数は家族が加害者だから、被害者遺族と加害者家族が同一人物ということになるから、問題は複雑である。
というふうに、被害者が極刑を求めているから死刑、と単純にはいかないように思う。
被害者の意向は別にしても、死刑というの公正さを欠いていると思う。
日本では、殺人は年に約600件、すべての事件で死刑判決が下されるわけではない。
「(裁判所は)死刑か無期懲役かを選ぶことになるわけですが、その限界はきわめて微妙ですし、むしろ、はっきりとした限界はないというべきでしょう。ところが無期懲役と死刑との間には、生か死かという質的な断絶があります」(団藤重光『死刑廃止論』)
となると、
「裁判官は主観的には恣意的でなくても、客観的には恣意的といわれても仕方がないでしょう」(団藤重光『死刑廃止論』)
裁判官の主観で死刑になったのではたまらない。
シスター・プレジャンの話だと、アメリカでは、毎年15,000件の殺人事件があり、そのうち死刑になるケースは1%。
「犯人が死刑になるケースに含まれないのが、犠牲者がアフリカ系アメリカ人である場合や、貧しい人同士の殺人の場合などです。そして、犯人が死刑になるケースの8割が、犠牲者がヨーロッパ系の人である場合です。たとえば、ホームレスの人が殺されたとしても、犯人はなかなか死刑になりません。あるいは、貧しい人や名もない人が犠牲になっても、犯人は死刑になりません。それから、政治も絡んできます。政治的に注目されたり、メディアの関心を集めるような事件では、死刑になる可能性が高くなります」
これでは裁判が公正に行われているとは言えない。
それに加えて、裁判所の量刑基準は変化することも問題にしないといけない。
懲役1年が2年になるのならともかく、死刑の言い渡しの基準も変化しているわけで、以前なら無期だったのが死刑になったり、その逆だったりする。
生きるか死ぬかということで公正さが保てないのだから、やはり死刑はまずいと思う。
もう一つつけ加えると、世論が裁判に影響を与えてはまずい、ということである。
インターネットで知り合った3人が女性を殺した事件があったが、遺族が加害者に死刑を求める極刑陳情書への署名活動をされいる。
そのHPを見ると、活動を始めてわずか2ヵ月目の11月14日には20万筆もの署名が集まり、12月25日には235,100名、さらには1月24日には246,109名とさらに増えているそうだ。
もしも署名やコメンターの発言が裁判に影響を与えることになれば、裁判は法律や判例ではなく、多数決で決めることになってしまう。
それでは裁判を行う必要がなくなる。
私はこちらのほうが怖い。