三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

本田哲郎『釜ヶ崎と福音』(2)

2007年06月24日 | 

普通、我々は神さまとか天国というと高いところをイメージし、神さまが上から人間の世界に下ってくださり、私たちを救い上げてくださると考えがちである。
ところが、本田哲郎『釜ヶ崎と福音』はそれはまやかしだと言う。

神の子は上から下にへりくだった方だという根本的な解釈ミスがすべてに影響を及ぼしている。
イエスは低みに生まれ、低みに立ちつづけ、低みに死んだ。
だから、神さまも下からすべてを支え上げるはたらきをしておられるのではないか。

神は、いつも低みから天と地を御覧になっておられる方なのですよ。神の視点、神の視座は、天の高みにあるのではなくて、地の低いところにすえられているのです。(略)
ゴミとホコリが降りつもるような、低い低い、社会の低み、そこに天の御父のはたらきの場があり、そこからいつも天と地のすべてを見ておられる。


ところが、いつのまにかキリストの教えが宗教という枠組みをとるようになり、上から下にという権威主義的な発想にずれ込んできた。
持っている人が持っていない人に、強い人が弱い人に恩恵をほどこすのを良しとする風潮になっていく。
だったら、病気で、貧しくて、年老いていたら、みんなのお荷物になり、哀れみとほどこしの対象で終わりなのか。

そうではない。

社会的に高い位置にいられる人、そこそこのところにおれるはずの人が、下に降りることをことさらほめるということは、はじめから下積みでがんばるしかない、そういう状況におかれている人たちを差別することになると気づいていないのです。


かといって、イエスは私たちに「貧しく小さくなれ」といっているのではない。
小さくなる競争とか、貧しさごっこ、あるいは英雄気取りの発想は傲慢以外のなにものでもない。

カトリックの修道者たちの責任はけっして小さくない。「清貧」の誓願を立てることによって、より神に近づいた生活を送っているかのように印象づけてきました。


曽我量深師の「信に死し、願に生きよ」という言葉を、竹中智秀師は『阿弥陀の国か、天皇の国か』で、このように指摘している。

真宗大谷派は同朋会運動を始めたのですが、「信に死し」というところで終わってしまって、「願に生きよ」ということがなかなか展開しないという問題があります。


では、どう生きることが願に生きることになるのか。

大事なのは、その人たちの思いを心から尊重し、その真の望みに耳を傾けて連帯し、その願いにわたしたちがどのくらい本気で協力するかなのです。(略)
大事なのは、人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りをしっかり受け止め、いましんどい思いをしているその人がいちばん願っていることをいっしょに実現させることです。


相手の立場に立って考えようとするのではなく、相手の立場には金輪際立てないというところから発想しなおす。

同じところに立てないのですから、教えてくださいっていう学ぶ姿勢を持つことです。(略)
ただ大事なのは、自分よりも多くの苦労をし、痛みを知っている先輩たちの方が、はるかにゆたかな感性を持っていることを認めて協力することです。そして少しずつ少しずつ、いつも何かを教えてもらおうという気持ちで関わること。(略)
いちばん貧しく、小さくされがちな仲間たちに対して、尊重し尊敬の念をもって関わりなさいといっているのです。


『阿弥陀の国か、天皇の国か』に、和辻哲郎のこんなエピソードが紹介されている。
和辻哲郎の父親がなくなり、葬式をすることになった。
その地方の風習として、葬式を出した家の者たちは会葬者が帰っていく時、土下座して礼を述べることになっている。
東京大学教授の和辻哲郎は「このようないなかの人々にどうして土下座などできようか」と思った。
しかし、やむを得ず土下座をし、会葬者の足音を聞き、わらじを見ていると、大地の心とでもいうべきものがよみがえってくる。
自分は一人で生きてきて、一人でえらくなったと思っていたが、大衆に支えられてきた。
その大衆に唾を吐きかけていたことに、土下座をして初めてわかった。

竹中智秀師はこのあとに諸仏供養について話す。

供養諸仏ということは大衆の中に仏性を見ていくことですね。これはどこまでも礼拝していくことです。大衆を本当に礼拝し、尊敬していくことが供養諸仏です。


聖書に出てくる愛(アガペー)とは、神の人間に対する愛のことである。
そして、神が人間を愛するように、人間もお互い愛し合いなさいということである。

好きになれない相手かもしれない、でも大切にしなさい。愛情を感じない相手であるかもしれない。でも大切にしなさい。自分自身が大切なように、隣人を大切にしよう。愛情が薄れ、友情が失われたとしても、その人をその人として大切にしようとすること、これこそ人間にとって大事なことだ。

本田神父の言っていることは竹中智秀師の話と通じるように思う。

自分が楽しいからその喜びを人に分けてあげられる、というのはわたしたちがいつも犯す錯覚です。(略)
ほんとうにだれかの支えが欲しいとき、助けてもらいたいとき、ただ明るい人、喜びいっぱいの人というのは何の役にもたちません。痛みを知っている人こそが、力を与えてくれるのです。


「慰める」ということの本来の意味は「痛みを共感、共有する」ことなんだそうだ。

もし、わたしがだれかの痛みに共感しつつも、その人が苦しめられていることについて怒りをあまり感じないとしたら、わたしの共感は本物ではないということです。(略)
中立の立場をかなぐりすてて、今しいたげられ、苦しんでいるその人の側にしっかりと立ち、抑圧を取りのぞいて苦しみから解放すること。


頭で考えておしまいではなく、具体的に行動する。

もし、自分の国が制度として弱者の切り捨てをしていたり、武力介入による他国への侵略や経済搾取をしているなら、わたしたちは距離をおいたところからそれを批判するだけではなく、それをやめさせる闘いに、具体的に参加することが大事であり、それこそが神の望まれる平和を実現させる効果的かつ唯一の方法でもあるのです。(略)
現代世界の貧困は、たまたま出現したというものではなく、作り出されたものです。富と権力の恩恵に浴しつづけたい人たちによる政治と経済政策によって、意図的に作り出されたものであることに気づくのです。(略)
わたしたちの怒りの矛先は、こういう社会や制度の責任あるリーダーたち、権力の座にいる者たちに向かうでしょう。洋の東西を問わず、アジアでもアフリカでも、富と権力の座にある者たちこそ諸悪の根源だと思えてくるものです。


世界を変えることなどできそうもないと思うが、江川紹子『名張毒ぶどう酒殺人事件・6人目の犠牲者』に、取材や執筆の動機を書いてあるそうだ。

この実態を知ってしまった以上、私も逃げられない、と思った。ちょっぴり堅苦しい表現を使えば、知ってしまった者の責任というのだろうか。

「目の前でうめき声をあげている人の発見」でもある。
なるほど、こういうことかと思った。

コメント (36)
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