戦争映画は戦争の悲惨さを訴えた反戦映画であっても、悲惨さが悲愴さを生み、どこか華々しくなってしまう。
ところが、クリント・イーストウッド『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』は英雄が出てこない戦争映画である。
ピューリッツァー賞を取ったあの写真を見ると、硫黄島の擂鉢山に星条旗を立てたのは激戦の最中のように感じるが、そうではない。
『父親たちの星条旗』は、立てた状況はのんびりした雰囲気の中だったのに、写真が話題になったため、生き残った3人が英雄にまつりあげられてしまうという話である。
戦争末期、アメリカはお金がなく、戦時国債を売らないと戦争が継続できなくなるかもしれないので、彼らを利用したのである。
映画の冒頭、ふざけていて船から海に落ちてしまった兵士を救助することなく船団は進んでいく。
とてもじゃないけど遺族に説明できないアホらしい死に方である。
一人ひとりの兵士の命はどうでもいいということが最初に突きつけられる。
硫黄島の戦闘は、米軍が予定していた5日間をはるかに超える36日間もかかり、アメリが軍の死者は日本軍戦死者2万129名を上回る2万8686名だった。
ところが、『硫黄島からの手紙』を見ただけではそんなことはわからない。
栗林中将の作戦は効果があったのか、米軍の損害がどの程度のものか、何日間持ちこたえたのか、そうしたことは一切観客には知らされない。
『父親たちの星条旗』は擂鉢山に星条旗を立てた後にも激戦が続いたことが描いているが、『硫黄島からの手紙』では米軍が苦戦する描写はない。
ただただ次々と日本兵が死んでいく。
自決し、玉砕することだけが描かれる。
自決のシーンでは、飛び出した内臓がグロテスクで、彼らの死は無意味としか思えない。
撤退する者をののしり、殺そうとする中村獅童なんか、かっこよく死ねずにむざむざと生き延びてしまう体たらくである。
栗林中将にしても、イーストウッドは名将として美化しているわけではないと思う。
英雄などいない、ただ空しく死んでいくだけ、という戦争の現実をイーストウッドは描きたかったのではないだろうか。
どんな戦場もみな同じである。