三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

拘置所から「友人」に出した手紙について

2006年06月23日 | 死刑

光市母子殺人事件の加害者が、5年前に拘置所から「友人」に出した手紙が裁判で問題にされ、またニュースでも繰り返し取り上げられている。
あの手紙によって、加害者には反省の色が見えないと決めつけられてしまった。

多くの人は、友人というから学校時代の友人かと思っているようだ。

ところが、手紙の相手は拘置所で隣の房にいた奴にすぎない。
だから、お互いが顔を見て話したこともない。

この「友人」から拘置所の加害者へ手紙を出したのが、手紙のやりとりのはじめである。

おそらく、相手に受けようと、ことさらワルぶったりしたんだと思う。

そして、警察が手紙のやり取りをしていることを知り、手紙を提出させ、そして文通を続けさせた。
ひょっとしたら、「友人」はこの手紙を売ったらもうかるのではと考え、アホなことを書かそうとあおり立てかのかもしれない。
そして、金目当てで「週刊新潮」に手紙を売ったわけだ。

本当の友人ならそういう手紙を売ったりなどしない。
こんな手紙が裁判を左右するんじゃ無茶苦茶である。

マスコミはこうした経緯をよく承知している。

なぜなら各放送局はこの手紙のコピーを持っているから。
なのに、経緯をちゃんと報道しないばかりか、手紙の文章を前後の文脈とは関係なく恣意的に取り上げ、加害者が反省していない証拠だと言いたてている。
誤解を招かぬよう、今後マスコミは「友人」という言葉を使わないようにすべきだ。

先日、飲み屋で光市母子殺人事件のことを話していたら、加害者が拘置所から出した手紙のことについて、店の女の子が「あの人は弱い人だと思う。弱いから格好つけてあんな手紙を書いたんだと思う」と、そんなことを言ったので驚いた。
その女の子(といっても若くはないが)、加害者の心情を思いやるのである。
加害者本人に会ったことがなく、マスコミの罵詈雑言の報道しか情報がないのに、加害者の気持ちに立って考えることに驚いた。
「共に生きる」とよく言うけれども、「悪人と共に生きる」なんてことは普通はできないと思う。

(追記)

いわゆる「友人」に出したという手紙については以下をご覧ください。
この「友人」は警察から半ば脅されて文通していたそうです。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/6125cc8afe1fa3ccaedf3143a7ea75c0

http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/48a428c971638f2ff97dd6fc85c0b407

コメント (28)
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