親から捨てられた4人兄弟を描いた是枝裕和『誰も知らない』は、子供たちの生活を美化していて、育児放棄された子供の身になってみろと思って腹が立った。
しかし、『花よりもなほ』は犯罪被害者と加害者が共に生きていく道を求める映画で、これも偽善と言えば偽善だが、こちらの偽善は好きである。
『花よりもなほ』は、父親が殺され、仇討ちのため江戸の裏長屋に住んでいる武士が主人公(宗左衛門)である。
だが、忠臣蔵のように仇討ち賛美の映画ではない。
赤穂浪士に対して、「夜中に寝込み襲ってんだぞ。しかも大勢でよってたかって隠居した爺さんひとり殺してんだ、卑怯にもほどがあるじゃねえか」と冷やかしているほどである。
『花よりもなほ』では、憎しみ、恨みをどうしたらいいのか(「糞(憎しみ)をもちに代える」)ことについて、『お楽しみはこれだ』で取り上げてもらいたい名言がたくさん出てくる。
もっとも私は和田誠のような記憶力がないので、悲しいかなみんな忘れてしまった。
で、公式サイトを見ると、
という言葉があった。
小説版『花よりもなほ』を読むと、こういうセリフがある。
是枝裕和監督としては、テロに対する報復爆撃といった、憎しみの連鎖をいかに断ち切るか、ということが念頭にあるのかもしれない。
しかし、私は映画を見ながら、光市母子殺人事件の被害者遺族が復讐を口にし、山口地裁の判決が出たあと、「司法に絶望した。早く被告を社会に出してほしい。私がこの手で殺す」と言ったことに対する是枝監督なりの答えかなと思った。
このセリフはマスコミ批判じゃなかろうか。
糞をもちに変えることで思い出したのが法然のこと。
9歳の時に、父の漆間時国は明石定明との確執の末、夜襲にあって殺される。
父の時国は臨終の枕べに勢至丸(法然)を呼んでこう遺言したと伝えられている。
仇を恨むな、もし仇を討てば、また恨みを生み、恨みしか残らない。恨みはつきることがない。だから、仇を討つな。恨みを捨てよ。お前は出家して、この父の救われていく道、お前自身の救われていく道を求めよ。
「菩提をとむらう」という言葉は、辞書を調べると、「死者の冥福を祈る」という意味で、普通は死んだ人にいいところへ行ってもらうために追善するということだと思われている。
しかし、本来「菩提」とはさとりという意味である。
亡くなった人が仏になる道を求めてほしい、と法然上人の父は願ったのだろう。
では、その道とはどんな道だろうか。
中村薫先生が大河内祥晴さんのことを話された。
12年前、大河内さんの息子さんである清輝君は中学二年の時にイジメを苦にして自死している。
清輝君の遺書を大河内さんは発表し、当時かなり話題になった。
いじめた11人のうち4人が少年院等に送られている。
中村先生のお話で驚いたのは、いじめた4人と彼らの両親とが12年間、毎月清輝君の命日に来ているということだ。
たまたま大河内さんのところは、毎月27日の命日に、4人の子供とお父さん、お母さんがお参りに来ているんです。私の兄が住職ですから、一緒にお勤めをして、みんなと話をすることを12年間毎月続けてきたんです。
私は大河内さんに聞いたんです。「あなたは4人の子供たちが憎くなかったですか」と。そしたらおっしゃいました。
「憎かった。この四人さえいなければ息子は自死しなかった。だから憎かった。しかし、憎しみでは出会えないことに気がついたんです。人とは憎しみの中では出会えないんです」
つまり、許すということがどこかにないと出会えないんです。大河内さんは12年間、その子供たちと話をした。彼らはもう25、6歳になります。毎月出会って、謝り許す世界が12年間続いて、大河内さんは「わかった」と言われるんです。「4人の子供たちも寂しい、悲しい思いがあったんだ」と。
「菩提を弔う」とはこういうことなのかと思った。