『黙秘権か…。まあ、それも、よかろう。どちらにしろ、交番へ来てもらうことになるんだからなっ!』
『ち、ちょっと待って下さいよ、旦那…』
タコにしては珍しく、猫なで声を出した。
『聞いたとこによれば、お前、ここのお嬢さんに、ちょっかいを出しているそうじゃないか』
『誰が、そんなこと言ったんです。おいらが、そんなことする訳ないじゃないですか』
『ネタは上がってんだよ。隠そうたって、そうはいかんぞ!』
ツボ巡査は、声を少し荒(あら)げた。
『…参りました。旦那にかかっちゃ隠せねえや…』
タコは、うそぶいてツボ入りした。さすがに刑事を目指すツボ巡査だけあって、尋問(じんもん)は鋭(するど)かった。
『まあな…。なにも、ここを通っちゃいけないと無茶、言ってんじゃない。通るのは、大いに結構だ。天下の公道だからな。ただ、ちょっかいは、いただけない。ところで、そんなに綺麗なのか? ここの、お嬢さん』
『へえ、そらもう…』
タコは、すぐ肯定した。確かに、みぃ~ちゃんは小次郎がホの字になるほどの器量よしで、チンチラとアメりカンショートヘアーの混血ながら美人、いや、美猫だった。若いツボ巡査の関心を引かない訳がない。ツボ巡査の壺(つぼ)は横にひっくり返った。中に入って出られなかったタコは出口を得た。
『ともかく一度、会って、苦情内容を訊(き)いておく必要があるな…』
ツボ巡査は腰を下ろし、尻尾(しっぽ)の先を右に左にと振った。
その頃、久しぶりにブラつくか…と、タコは雨がやんだ灰色の空を眺(なが)めながら塒(ねぐら)を出た。塒はドラに譲(ゆず)ってもらった野原になっている空き地の土管だ。過去は米、麦、菜種、レンゲが植えられていた土地も、いまや耕作放棄され、荒れ放題だ。
『俺にとって住み勝手はいいが、恐らく建物か駐車場になってしまうのが落ちか…』
タコは情けない国になったもんだ…と、野原を歩きながら思った。ゴロツキ猫のタコが思うくらいだから困った国だが、文明は勝手にどんどん進んでいき、どうしようもない。俺も人間に生まれていれば、もう少しいい社会に出来たかもな…と悪猫のくせに生意気を思いながらタコは小鳩(おばと)邸をスタスタとめざしていた。時を同じくして、ツボ巡査も小鳩邸をめざしていた。二匹は遭遇接近していたのである。サトイモの葉は雨がやんだから道端へ置き、また、帰りに持って帰るか…くらいの軽い気分のツボ巡査だった。タコがツボへ入るのか、ツボが先着してタコを取り逃がすのか・・は、神のみぞ知るだ。
先着の結果はツボ巡査の方が、わずかに早かった。とはいえ、ほとんど鉢合(はちあ)わせで、タコはツボへ入る破目になったのである。
『お前が、この辺りを徘徊(はいかい)しているドラの手下だな!』
タコとすれば、そのとおりだから神妙にするしかない。こりゃ、厄介(やっかい)なのに出会っちまったもんだ…とタコは軽く頭を下げ、黙んまりを通した。こうなっては仕方ない…と、ツボ巡査は強行策を取ることにした。
こうして、その日から小鳩(おばと)婦人邸へ日参する形で若いツボ巡査の巡回が始まった。若いから疲れることもなく、ツボ巡査は交番との間を二往復はした。午前と午後の二回で、付近での見張り時間がほぼ3時間というのだから、根気がいる。だが、そこはそれ、ツボ巡査は将来、刑事を目指していたから、若さとファイトで続けた。雨の日はさすがに昼からの一度きりだったが、それでも欠かすことはなかった。
その日も朝から小雨が降っていた。
『ツボ君、今日は昼からでいいぞ…』『はい、そうさせてもらいます』
『どういう訳かタコは最近、現れないようだね』
『はあ、そうですね』
昼過ぎになり、ツボ巡査は巡回の準備を始めた。空からは、まだポツリポツリと雨水(あまみず)が落ちていた。
『まだ雨寄ってるな。一応、被(かぶ)ってった方がいいぞ…』
傘の代わりは近所の畑で仕込んだサトイモの葉である。それを頭に乗せ、サーカスもどきに落とさないようにバランスを保ちながら歩くのである。どうしてどうして、雨の日の巡回は、なかなか大変だった。ツボ巡査は頭にサトイモの葉を乗せ、頭を振りながら均衡を上手い具合に取り、歩き始めた。サトイモの葉は小ぶりのものである。大きい葉だと、スッポリと身体は包めるが、逆に歩き辛(づら)いのだ。老いて定年近いぺチ巡査は、滅多に巡回へ出なくなっていた。安否が気遣(きづか)われるからだった。
『巡回しなくてもいいんですか?』
リンゴ箱の中から動きそうにない怠惰(たいだ)な二匹を見て、小次郎は催促した。これじゃ、僕の方が、おまわりじゃないか…と小次郎には思えた。
『気持は動いとるんですがね、ははは…身体が』
ぺチ巡査は気楽そうに笑った。笑ってる場合じゃないだろうがっ! と、少し怒れた小次郎だったが、そこはそれ、ぐっと我慢した。
『それじゃ先輩(せんぱい)、私、回ってきます』
先輩? と小次郎は疑問に思った。ぺチ巡査は巡査長だから、片方の耳先を少し動かす敬礼はともかく、巡査長、回ってきます…と言うのが相場だ。
『ぺチさんの後輩なんですか?』
小次郎は徐(おもむろ)にぺチ巡査に訊(たず)ねた。
『ああ…竹下村塾のね』
『竹下村塾? 長州藩みたいですね』
『ははは…。こちらは今もある、あの竹林の中の塾(じゅく)だよ』
ぺチ巡査は器用に尻尾(しっぽ)を曲げ、その方角を示した。猫交番から少し離れたところにある竹林は、小次郎も知っていた。ただ、その中に塾があることを小次郎は知らなかった。最近、住み着いた風来猫が始めた塾だそうで、野良も含めてたいそう人気があるという。ぺチ巡査は巡回中に知り、最初に入門したようだった。しばらく遅れでツボ巡査が入ったらしい。ツボに入るのではなく、ツボが入ったのだ。
その日、古いリンゴの木箱の中で、二匹が寝転んでいるところへ小次郎が通りかかった。
『へへへ…、今度、着任しましたツボです。以後、ご昵懇(じっこん)に…』
ツボ巡査は寝転んだまま、片方の耳先を少し動かし、敬礼する仕草をした。小次郎は、ご昵懇とは…と、偉く古めかしい言葉を使う巡査だ…と思った。だが、よくよく考えれば、老いたぺチ巡査と相性がいいコンビのようだ。ただ、へへへ…は少し軽いぞ…と、小次郎が頼りなく感じたのも事実である。
『いや、こちらこそ…』
小次郎は腰を下ろすと、背を伸ばして尻尾(しっぽ)をクルリと身体に巻きつけ襟(えり)を正した。そして、紋切り型の猫語でタコ巡査に挨拶を返した。
『つきましては、この前の一件ですがな。とりあえず、ツボ君に警らささせることにしました。手立てのいいのが、まだ浮かびせんでな…』
ぺチ巡査は、寝そべったまま、警官らしくない緩(ゆる)みっぱなしの姿勢で言った。
『はあ…。とにかく、よろしくお願いします』
自分の力ではどうしようもない以上、小次郎としては、全てを委(ゆだ)ねるしかなかった。いずれにしろ、タコがみぃ~ちゃんにチョッカイを出さなくなればいいのである。要は、小鳩(おばと)邸へ近づかなくなればいい訳だ。ぺチ巡査に有効手段が見つかっていない以上、タコがみぃ~ちゃんに近づかない対策としては、とりあえずツボ巡査のこまめな警らしかない。
『出来るだけ早くお願いします。なんと言っても、みぃ~ちゃんは、いいとこのお嬢さんですから…』
『その手の荒事は苦手(にがて)だと?』
『おっ! 今度は歌舞伎ですか?』
『ああ、まあ…』
ぺチ巡査が頷(うなず)いのを見て、小次郎はやはり古いな…と思った。ただ、小次郎も歴史好きで古風だったから、レトロ的にぺチ巡査の古さをいい感じに捉(とら)えていた。
『ともかく、早めに…』
『ああ、ツボ巡査が着任するまでに、なんとか手立てを考えとくよ』
『ドラのときのようなのを、ひとつお願いします!』
『うん、任せなさい』
ぺチ巡査もそう言われては悪い気がしない。実のところ、ドラが二度と姿を見せなくなったのはぺチ巡査のお蔭ではなく、里山に頼んで作ってもらった防犯装置? によってである。だが、老いたぺチ巡査の手前、そうヨイショ! したのだ。ぺチ巡査は、小次郎に頼まれたドラの一件を、すでに忘れていた。
タコが出没するといけない・・ということで、小次郎はみぃ~ちゃんに、しばらく外出しないように釘をさしておいた。そちらの心配は一応、小康を得て、小次郎は交番に日参して新任の巡査を待つことにした。その新任の若いツボ巡査が交番へ赴任してきたのは、それから一週間ほどしてからだった。
小次郎にはぺチ巡査が笑った意味がすぐ理解出来た。蛸(たこ)釣り漁に壺(つぼ)は欠かせない。壺にローブを巻いて海中へ沈めるのだ。すると、どういう訳か、蛸はいい塒(ねぐら)だ! とばかりに中へ入る。あとは、ロープを引き揚げるだけ・・という寸法である。タコ対策にツボ巡査を・・で、ぺチ巡査は笑ったのだ。
『その、ツボ巡査は、いつ頃、赴任(ふにん)されるんです?』
『本署で訊(き)いたところでは、数日中とか言っておったな、確か…』
ぺチ巡査はべったりと古びたリンゴの木箱の中で横たわったまま欠伸(あくび)をした。本署は里山の家からそう遠くない神社境内にある拝殿下にあり、十数匹の猫が集まる。猫警察署員だけあって、辺りを徘徊(はいかい)する野良とは一線を画す。全てが飼われ猫なのだ。
『そうですか…。今回も一つ、よろしくお願いします』
『いやいや、与太猫のドラの配下だから、こちらとしても放ってはおけんよ。また、急ぎ働きをする危険性もあるからね…』
『火付け盗賊改め方ですか?』
里山家のテレビで知った時代劇ドラマを思い出し、小次郎はニタリ! とした。
『そうそう、それそれ!』
小次郎は一瞬、古いな…と思えたが、思うに留めた。ぺチ巡査もどこやらという家の飼われ猫で、古いリンゴ箱の交番まで日々、通勤しているとは、小次郎が直接、本人ならぬ本猫から聞いた情報だった。
『そうなの。先生、お願いね』
『任せなさい…』
先生と呼ばれ懇願(こんがん)されれば、小次郎も、そう悪い気はしない。そこへ互いに[ホ]の字となれば、これはもう小次郎としては、なんとかせねばならなかった。小次郎は、腰を上げるとその足で交番へスタコラと向かった。
みぃ~ちゃんの邸宅から小次郎の家までが車で約10分ばかりかかる。小次郎の足だと、早足でも20分以上はかかる行程だから、そう度々(たびたび)は足を運べなかった。ぺチ巡査が常駐する交番へは、家に着く時間と余り変わらず、ほぼ同じだった。
『フゥ~~おお、小次郎君じゃないか…。忙しいのかい? しばらく見なかったね』
ぺチ巡査は巡察から帰ったところか、完璧に疲れ、寝そべって小次郎を見上げた。
『お疲れでしたね。僕と入れ違いだったようで…』
『そうそう、みぃ~ちゃんが危なかったんだよ』
『聞きました。なにかいい知恵はありませんかね?』
『アソコまでは少し遠くなったな…。すっかり疲れちまったよ。新任のツボ巡査と交代しよう』
『異動ですか?』
『いや、そうじゃないんだ。本署に若手をお願いしていたんだよ。私一人じゃ、大変だからね。定年までは、もう少しあるしな、ははは…』
ぺチ巡査は鼻毛(はなげ)を震わせて笑った。
みぃ~ちゃんにすれば、勿怪(もっけ)の幸(さいわ)いというところである。渡りに舟と救いを求めた。
『おまわりさん! 助けてっ!』
『んっ? お嬢さん、いかがされました?』
ぺチ巡査は老いぼれて弱った脚を伸ばしながら、欠伸(あくび)をした。
『チェッ! 邪魔が入ったか。またなっ!』
タコは疾風(はやて)のように駆け去った。
『あれは確か…そうそう! ドラの手下のタコだな。また、悪さを…』
『そうなんですか?』
『ええ、注意して下さいよ、あの手合いには…』
『有難うございました。そうしますわ…』
みぃ~ちゃんはお上品に前足で顔を撫(な)でつけた。
『では…。また何ぞあれば、ご相談下さい』
ぺチ巡査は、ゆったりと歩き去った。そのあと、やってきたのが小次郎だ。まるで、演劇かドラマ、映画のようなタイミングのよさで、この順序が少し違えばタコと遭遇することになったのだから、運とは妙なものだ。結局、小次郎は運がある猫・・ということになる。
『先生! えらいことよっ!』
小次郎の姿が見えるや、みぃちゃんは、シカジカカクカクと起きた経緯(いきさつ)を説明した。
『なるほど! タコねぇ~。またぺチさんに、いい手立てを考えてもらうしかないなぁ~。僕はいいけど、君が困るよな…』
小次郎は人間が腕組みするように身体に巻いた尻尾(しっぽ)の先を軽く回した。
通用門を開けておけば小次郎の出入りも自由になるのだが、小鳩(おばと)婦人がそれまで警戒していた野良猫達にもチャンスが巡ることを意味した。そして運悪く、みぃ~ちゃんがヒョイ! と通用門を出たところへ通りかかったのが泥鰌(どじょう)屋のタコだった。タコにしてみれば、オッ! 綺麗なのが出てきたぞ…といったところだ。当のみぃ~ちゃんの方は、そろそろ来るかしら? 先生…ぐらいの小次郎を待つ気分で出たのだ。このときは幸いにもそれで済んだが、吸盤のようなタコのシツコさはその後も尾を引いた。腕っ節(ぷし)は与太猫のドラほど強くはなかったが、タコはどうしてどうして、与太猫ドラの右腕と目されるだけあって、なかなか狡賢(ずるがしこ)かった。みぃ~ちゃんが出てきた頃合いを記憶して頭に叩(たた)き込んだのか、その時分になると、ちょくちょく顔を見せて通用門を窺(うかが)うようになった。最初のうちは窺うだけでよかったのものが、二匹の出逢いを目にしてから、タコの態度は豹変した。人間世界にもこの手合いはいるが、猫の世界も同じである。
『へへへ…綺麗なねぇちゃんよぉ~、俺とも付き合わねえかっ!』
小次郎が引き揚(あ)げたのを見届け、タコはみぃ~ちゃんに近づいて、ニャゴった。人間だと凄(すご)んだ・・ということになる。
『フン! なによっ、あんたなんか!』
みぃ~ちゃんがひと目でタコを袖(そで)にしたのも悪かった。
『なにっ!!』
タコの闘争本能に火がつき、尻尾を居丈高に振り上げた。そこへヒョコヒョコと現れたのが交番猫のぺチ巡査だった。