真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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キプロス紛争に対するアメリカの関与と国際法、国際条約

2022年08月21日 | 国際・政治

 8月17日付朝日新聞「核に脅かされる世界に 被爆国から2022」に「まず米国が謝らないと」と題する元広島市長の平岡敬氏の文章が掲載されていました。そのなかで、”冷戦が終わった時、これで核兵器の恐怖はなくなったと私たちは思いました。だけど米国は冷戦に「勝った」と考え、ロシアを弱体化させようとする基本政策をずっと続けてきました。”と書いていました。
 私も、核兵器を「非人道兵器」として、その使用、使用の威嚇、また、開発や保有も例外なく禁止する核兵器禁止条約を最も重要な国際条約として成立させるためには、まず、日本に2発の原爆を投下したアメリカが、その過ちを認め、謝罪することが必要だと思います。
 当時すでに、ハーグ条約ジュネーブ条約があり、民間人の殺害はもちろん、”無防備都市、集落、住宅、建物はいかなる手段をもってしても、これを攻撃、砲撃することを禁ず”などと定められていたのです。また、不特定多数を死に至らしめたり、重篤な後遺症をもたらしたり、人体に無用な苦痛与える毒ガスや生物兵器などの使用も禁止されていたのです。そうした国際条約を、日本も守りませんでしたが、その過ちをきちんと認め、謝罪し、アメリカにもその過ちを認め、謝罪を求めることが大事だと思います。

 でも、実際に2発の原爆投下を命じたアメリカのトルーマン大統領は、戦後、客観的な根拠なく「百万人のアメリカ兵の生命を救うために、原爆を投下したのだ」と語り、投下の命令を正当化しました。
 また、アメリカのキッシンジャー元国務長官は、田原総一朗氏のインタビューで、同じように「広島と長崎に原爆を落とさなければ日本は本土決戦をやるつもりだった。本土決戦で何百万人、あるいは一千万人以上の日本人が亡くなるはずだった。原爆を落とすことでその人数をかなり減らしたんだから、むしろ日本はアメリカに感謝すべきだ」などと答えたということです。この主張にも客観的な根拠はないと思います。
 そして、こうしたアメリカを代表する政治家の考え方は、国際法や国際条約を意味のないものにし、力の支配を正当化する野蛮な考え方だと思います。

 だから、被爆国日本が、原爆を投下したアメリカに、その過ちを認め、謝罪するよう求めることが核兵器禁止条約成立の出発点になると思います。でも、日本政府にその姿勢はありません。そしてそれが、アメリカの対日政策の結果によるものであることを、私は見逃すことができないのです。
 敗戦後、”再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し”、”日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う”と日本国憲法で約束して出発した日本が、なぜ、アメリカに原爆投下の謝罪を求めることができないのか、なぜ、戦後77年を経てもなお日本に米軍基地があり、あたかもアメリカの属国であるかのような状態が続いているのかを考えるとき、私は、日本の政治とともに、アメリカという国の民主主義や自由主義の実態を問わざるを得ないのです。

 今回は、キプロス紛争に対するアメリカの関わりを「アメリカの陰謀とキッシンジャー」クリストファー・ヒッチンス:井上泰浩訳(集英社)から抜萃しました。アメリカのキプロスに対する対応は、アメリカの覇権と利権を国際法や国際条約に優先させる対応であり、戦後の、日本に対するGHQの「逆コース」といわれる方針転換後の政策も、同じように、国際法や国際条約を蔑ろにした対応であったと思います。

 当初、GHQはまじめに「日本の民主化・非軍事化」の政策を進めていたと思いますが、「逆コース」といわれる方針転換がなされて以後は、日本を民主国家ではなく、反共国家として、アメリカの影響下に置くための政策に変ってしまったと思います。そして、「公職追放令」を解除し、戦犯を政界・財界・学界などに復帰させたことが、日本の戦前回帰のはじまりになったと思います。
 「団体等規正令」や「占領目的阻害行為処罰令」なども、民主化運動や社会主義運動を取り締まるものに変わってしまったのだと思います。
 だから、GHQの方針転換以後の日本の政治は、戦争指導層の影響力が強まり、アメリカに隷属し、国際法や国際条約を蔑ろにする政治になっていったように思います。核兵器廃絶に対する日本政府の姿勢が、そのことを象徴していると思います。
 
 「アメリカの陰謀とキッシンジャー」(集英社)の著者、 クリストファー・ヒッチンスは、1970代後半、キプロスに外国特派員として赴任しており、最初の妻は、ギリシャ系キプロス人であるといいます。したがって、キプロス紛争の理解は正確であり、深いように思います。
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                   第七章 キプロス

 キッシンジャーの三部作回顧録『激動の時代』の第二巻。1974年のキプロス紛争に触れることは都合が悪いとでも思ったのか、この問題については先延ばしにすると書いてある。

 キプロスのことについて話すのは、またの機会にする。なぜなら、キプロス問題はフォード大統領に関わることであり、今日もなお未解決であるからだ。

 ずいぶんいいわけがましいが、裏を返せばキプロス問題は彼自身の問題であるからだ。それに、ベトナム、カンボジア、中東、アンゴラ、チリ、中国、SALT(戦略兵器制限交渉)なども、当時は「未解決」であったはずだ。「フォード大統領に関わる」というが、国際外交問題で米国大統領に関わらないことなどあるのだろうか。
 キッシンジャーが自分のことを語るときは、自分は信念を持って国内外の重要政策を執りおこなってきたひとかどの人物である、という虚像を植えつけようとする。臆病者のそぶりを少しでも見せれば彼の自尊心が傷ついてしまうと思っているのだろう。しかし本当の姿は世間知らずでささいなことで動転してしまう臆病者だ。陰謀を知っていたことが記録文書によって明らかになったとき、犯罪の責任を問われそうになったり、共謀の罪を被りそうになったときは必ず、うろたえながらも虚勢を張るのがキッシンジャーだ。
 そのいい例が1974年のキプロス問題だ。回顧録の第二巻が出てからずいぶん遅れて刊行された『激動の時代』第三巻の中で、キッシンジャーは弁明している──ウォーターゲート事件によってニクソン政権が崩壊したため、ギリシャ、トルコ、キプロスの重大な三国軍事関係に適切に取り組むことができなかった。とんでもないいいわけだ。キプロスは「NATOの下脇腹」にたとえられることが地政学的に最重要であることを物語っているし、中東と隣接しているので米国の戦略上の重大拠点である。
 内政問題があったとはいえ、この地域にキッシンジャーが無関心でいられる理由はない。さらに、キッシンジャーがキプロス問題に取り組めなかった理由として挙げているニクソン政権の内部崩壊は、逆に強大な権力を彼に握らせる結果となった。1973年にキッシンジャーが国務長官に就任したとき、彼の前職、国家安全保障問題大統領特別補佐官の地位も継承した。こうして、キッシンジャーは秘密組織である四十委員会の議長を務める唯一の国務長官となった。CIAの秘密工作を練り、指揮してきたのが、この委員会だ。
 一方、国家安全保障会議議長としても、すべての重要諜報活動の許認可をキッシンジャーが握った。国家安全保障会議で彼の側近を務めていたロジャー・モリスによると、キッシンジャーはふたつの重要ポストを占め、加えてニクソンの地位は崩れ去っていただけに、誇張抜きに彼は「国家安全保問題の実質的な大統領」だった。
 キッシンジャーは重箱の隅をつつく管理者であったばかりか、何にでも干渉し威張りちらす人間であったことが、さまざまな資料からうかがえる。ニクソンの首席補佐官だったH・R・ハルデマンのホワイトハウス回顧録の中に、ある逸話が紹介してある。キューバを撮影した航空写真を見て興奮したキッシンジャーは、キュウバ危機の再来ではないかと大騒ぎしたという。写真は建設中のサッカー場だった。キューバ人は野球しかやらないと思っていたのだろう。キッシンジャーはサッカー場をソ連の新しい基地だと勘違いしたのだ。北朝鮮に米国機が撃墜されたときには、核兵器使用も視野に入れた北朝鮮爆撃を支持したという話もある。このように、ハルデマンの回顧録『権力の目的』を読むと、キッシンジャーの紛争を求める底知れね欲望の一端を垣間見ることができる。
 以上述べたことを踏まえた上で、キプロスの件は何も知らず、何もしておらず、つまり無関係だとキッシンジャーが主張していることを見直したい。まず、無関係であることを押し通すことは彼にとって重大事だった。なぜなら、関与していたとすると、外国元首の暗殺未遂、クーデター共謀、米国法の違反(外国援助法は、自国防衛以外の目的に使われる米国の軍事援助、武器供与を禁じている)、国際法違反の侵略行為、それに、何千人もの非戦闘民間人を殺害したことの共謀罪でキッシンジャーの有罪はまちがいないからだ。
 こういった結末を招かないようにするため、キッシンジャーは『激動の時代』と『再生の時代』でアリバイ作りをしている。『激動』の中では、「次にキプロスで紛争が起きれば、トルコの介入を招くことはまちがいないと前からずっと思っていた」と彼は断言している。キプロスのことを少しでも知っている人ならだれでもわかっていたことだが、NATO内のギリシャとトルコ間でキプロスをめぐり紛争が起きる危険があり、そうすればキプロスの分断につながる。さて、『再生』では、『激動』の中では知らん顔していた問題を取り上げ、キッシンジャーは「東地中海でNATO加盟二カ国間の紛争危機を」だれが望むだろうと、くり返し読者に問いかけている。
『再生』の199頁には別の発言がある。ここでは、キプロスのマカリオス大統領を「キプロス情勢を緊張させる元凶」だと述べている。マカリオスは民主選挙によって選ばれた共和国大統領だ。当時、キプロスは軍隊と呼ばれるものは持っておらず、欧州経済共同体(EEC)、国連の準加盟国で英連邦の国だった。マカリオス政権とキプロスの独立は、ギリシャ軍事独裁政権と軍事色の強いトルコの脅威にさらされていた。両国とも、キプロスの右翼系暴力団組織を援助し、この島の併合を虎視眈々とねらっていたのだ。
 このような情勢ではあったが、キプロス国内での「二国間」衝突は1970年代には緩和しつつあった。衝突が起きていたのはギリシャとトルコ国内のことで、民主主義・国際主義派と敵対関係にあった民族主義・独裁主義派との対立によるものだ。マカリオス大統領の暗殺計画もあったが、ギリシャ人とギリシャ系キプロス人の民族主義狂信派によって企てられたものだ。マカリオスを緊張の「元凶」呼ばわりすることは、情勢を理解していれば非常識もはなはだしいことだ。
 緊張の「元凶」というのは、キッシンジャーのことだ。もし、マカリオスが本当に情勢を緊張させる「元凶」であるならば、キプロスの人びとが彼の追放計画を立てるはずだ。ギリシャ正教会司祭で、民主選挙により選ばれたマカリオスは、キプロスに紛争をもたらす人ではなく、彼を追放する運動もキプロスにはなかった。キプロスと周辺地域におぞましい惨状をもたらすことになる紛争を選んだのは、キッシンジャーだ。
 ギリシャ軍事独裁政権によりマカリオス暗殺計画が練られていることをキッシンジャーが事前に知っていたことは、彼自身の記録や回顧録、政府の公式な調査記録をたどっていけば簡単に立証できる。ギリシャの独裁者で秘密警察を指揮していたディミトリオス・イオアニデスがキプロスでクーデターを起こし、ギリシャの支配下に置こうとしていたと、キッシンジャー自身も述べている。
 よく知られていたことだが、イオアニデス准将は米国の軍事支援と政治協力なくしては立ちゆかないなさけない政治基盤の上に成り立っていた。当時警察国家だったギリシャは、欧州会議から除名されEECに加盟することも拒否された。しかし、米国海軍第六艦隊の母港を提供し、米国空軍と諜報機関を受け入れた恩恵によって、彼は政権に居座ることができた。ウォーターゲート事件が発覚するまで、米国の対ギリシャ政策は甘すぎると議会で問題にされ、マスコミからもたたかれており、キッシンジャーはその渦中にあった。
 こういった状況の中で、ギリシャの独裁者イオアニデスはマカリオス政権打倒をねらっており、未遂に終わったものの暗殺計画を実行に移したと、一般的に理解されている。政権打倒をねらっていた者たちにとって、カリスマ的存在だったマカリオスを生かしておくことなど考えられず、マカリオス政権打倒とマカリオス暗殺は同じことだった。では、裏では何が起きていたのだろう。1974年5月、キプロスの首都ニコシアで起きたクーデターの2ヶ月前のことだ。キッシンジャーは国務省キプロス支局のトーマス・ボヤット支局長から報告を受け取った。ギリシャの軍事政権がキプロス、そしてマカリオス政権に対し攻撃を仕掛けることは間違いないとする状況証拠が報告されていた。米国政府がイオアニデスに対し思いとどまるよう警告しなければ、米国は黙認したものと理解されると、ボヤット支局長は伝えている。分かり切ったことではあるが、もし、クーデターが起きればトルコの介入を招くことは避けられないと、支局長は報告を結んでいる。
 キッシンジャーはシリアからイスラエル(いずれの国からもキプロスまで飛行機で30分の距離だ)に向う機中で、ボヤット支局長から届いたキプロス情報を読んでいる。このことは彼も認めている。しかし、ギリシャ軍事政権に彼から申し入れは送られなかった。
 国務省と国防省の高官や安全保障担当者に取って毎朝目を通すことが日課になっている『国家諜報日誌』の1974年6月7日付には、独裁者イオアニデスに対する見解を報告した6月3日付の米国政府現地報告が転載されている。

 ギリシャはマカリオスと政権内の支持者の打倒を、流血を招くことなく、また、EOKA(Ethniki Organosis Kypriakou Agonos)の支援を受けずに単独で24時間以内に遂行できると、イオアニデスは主張している。トルコは敵であるマカリオスの打倒を黙認するものと思われる……イオアニデスによると、もしマカリオスがギリシャに対して抵抗すれば、マカリオスを生かしたままギリシャ軍を引き揚げるか、それとも、マカリオスを葬り去りキプロスの将来についてはギリシャがトルコと直接取引するか、どちらを選択するか決めていないという。

 この報告内容が正しいことは、当時アテネで活動していたCIA職員が連邦会議で証言している。報告書からわかることは、イオアニデス准将は大風呂敷を広げ妄想癖のある人物だということ、それに、ギリシャによるキプロス侵略の危機が差し迫っていることだ( EOKAとはギリシャ系キプロス人のファシズム地下組織で、ギリシャ軍事政権から武器と資金援助を受けていた)。
 このころ、キッシンジャーは上院外交委員会のJ・ウイリアム・フルブライト委員長から電話を受けている。フルブライト議員は、ワシントン在住のギリシャ人ジャーナリスト、エリアス・P・デマトラコポウロスから、クーデターが差し迫っていることを聞いていた。フルブライト議員は、ギリシャが計画しているクーデターを阻止するための手段を講じるべきで、それには三つの理由があるとキッシンジャーに伝えた。
 第一に、ギリシャ軍事政権を米国政府が甘やかしてきたことに対する道義的な責任を取ることになる。第二に、地中海でのギリシャとトルコの紛争を阻止できる。第三に、キプロスで米国の名声を高めることになる、というものだ。キッシンジャーは、ギリシャの内政に介入できないという奇妙奇天烈な理由を挙げて、フルブライト議員の勧めを拒否した。キプロスに危機が迫っていたことの警告を受けていなかったと、キッシンジャーがいえるはずがない。
 外交儀礼というものは、ぶつぶつ独り言をいったり忍び歩きをするキッシンジャーの癖のように大変厄介なものであったりする。イオアニデスは建前上、秘密警察長にすぎないが、事実上のギリシャ軍事政権の司令官だった。ヘンリー・タスカ米国大使にとって、自分のことを「警官」だという男と外交的つき合いをすることは、随分居心地の悪いものだったろう。ここで思い出していただきたいのが、キッシンジャーもイオアニデスと似たようなものだった。公式にはキッシンジャーは外交担当者であったが、それに加え、四十委員会議長であり、秘密工作の指揮官だった。さらに、彼はCIAと長く関係を続けていたギリシャ軍事政権と個人的に取引までしていた。下院諜報委員会は1976年に、この問題について報告している。

 イオアニデスはCIAとしか取引を続けず国務省からの警告は無視するという情報を、タスカ大使はCIA支局長から受けていた。そのため、タスカはギリシャ指導者と直接連絡を取る必要はないと判断していた……キプロスでクーデターを実行することに対して米国大使館が深い懸念を抱いていたことは、イオアニデスに伝わっていなかったのは明らかだ。CIAだけがイオアニデスと連絡を取っていたことから、CIA支局へ送られた重要指令や、支局からの重要情報について、タスカ大使は把握していなかったものと思われる。イオアニデスは米国が黙認したと主張しているし、ワシントンはマカリオスに冷淡であったこともよく知られている。そのため、一触即発の状態が伝えられた報告を米国政府職員が無視していた、あるいは、紛争が起きることを容認していた、いずれかの疑いがかかっている。

 キプロス危機が迫っていたことを報告したトーマス・ボヤットの書簡は機密扱いとなっており、公開される見込みはたっていない。同じ下院諜報委員会で証言するよう求められた際、キッシンジャーはボヤットが議会に出るのを禁じることまでした。議会侮蔑罪に問われそうになったため、ボヤットは証言することになったのだが、職員、記者、傍聴者をすべて退席させた上で開かれた「秘密会議」で証言はおこなわれた。
 話は続く。1974年7月1日、キプロス問題で穏健派のギリシャ外務省の高官三人が辞職することをマスコミに発表した。7月3日、マカリオス大統領は、ギリシャ軍事政権に宛てた書館を公開した。書簡では、ギリシャ軍事政権の介入と転覆計画を痛烈に批判している。

 はっきりいわせてもらう。ギリシャ軍事政権の部隊が、EOKAテロリストを支援し秘密工作を企んでいる……アテネから見えない手が伸びてきて、わたしを消し去ろうとしていることを感じるし、その手に触りもした。

 また、この書館の中でマカリオスはギリシャ兵士らをキプロスから引き揚げるよう求めている。1974年7月15日、クーデターを予見できず、また阻止もできなかった失態を記者会見の席で追及されたキッシンジャーは、「情報が、街の中に転がっていたわけではない」と答えた。実際には、クーデターの情報は街に流れていた。それどころか、彼の持つ外交・諜報ルートから、クーデターの情報は刻々と入っていたはずだ。何もしていないというのは、事実上、なるようにさせたということだ。

 キッシンジャーがクーデターに驚いたというのはうそだ。知っておきながら何もしないのは、少なくとも黙認したのと同じではないか。キッシンジャーはクーデターを歓迎していたのではないかと疑うのも無理はないだろう。実際、そのとおりだった。
 クーデターにまつわる以下のふたつのことは疑いのないことだ。まず、ギリシャ正規軍がクーデターを遂行した。つまり、第三国による明らかな内政への直接介入だ。第二に、キプロスの主権を認めた諸条約に違反したことになる。露骨な違反行為だけではない。クーデター後、ギリシャ軍事政権は国粋主義者として悪名高い殺人者、ニコス・サンプソンをキプロスの傀儡「大統領」に選んだ。四十委員会の議長にとって、なじみの人物だ。彼は長期間にわたりCIAから資金援助を受けていた。そのルートは、アテネで軍事政権を支えていたCIAの覆面組織の新聞『自由世界』のサバース・コスタントポウロス編集長を経て、サンプソンがキプロスの首都で出していた狂信的な新聞『戦闘』に資金が流れていた。
 サンプソンは政権に就いて間もなく、民主主義者の殺傷を呼びかけるキャンペーンを始めたりしており、ヨーロッパ諸国はサンプソンを最低な人間としか見ていなかった。それにもかかわらず、キッシンジャーはキプロスの米外交使節に、サンプソン政権の外務大臣を外務大臣として受け入れるよう命令した。サンプソン政権を認めた最初で唯一の国家が米国だった。この時点では、マカリオス大統領の所在は不明だった。彼の官邸は銃砲火を受けており、暫定軍事政権のラジオは彼の死を報じた。実は、彼は間一髪で逃げ延びており、数日後に自分は生きていることをラジオで流すことができた。サンプソンらがどれだけ憤ったかおわかりだろう。

 

 


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