真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカCIAによるスカルノ政権転覆と大虐殺事件

2022年08月06日 | 国際・政治

 先日、米中央情報局(CIA)は、アフガニスタンで、アルカイダの指導者であるアイマン・ザワヒリ容疑者をドローンで攻撃し殺害したと発表しました。
 それに関して、アフガニスタンで政権を掌握したタリバン暫定政権のザビフラ・ムジャヒド報道官は、攻撃があったことを認め、「国際的な原則」に違反していると強く非難したといいます。ムジャヒド報道官の非難の詳細は知りませんが、私も、裁判なしに、それも他国の領土で、無人機を使い人を殺すことは、許されないことではないかと思います。
 アルカイダで思い出すのは、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件です。アメリカは、それがアルカイダによるテロであるとして、対テロ戦争を宣言しました。そして、アフガニスタンからのアルカイダの追放と、指導者であるウサマ・ビン・ラディンの引き渡しに応じないとして、アメリカはアフガニスタンに軍を侵攻させ、タリバンを標的に爆撃をくり返しました。また、2011年5月、アルカイダの指導者であるウサマ・ビン・ラディンを、隣国パキスタンにおいて殺害しました。
 いずれも、きちんとした法的手続きに基づく国際的合意や裁判などはありませんでした。だから、事件の経緯や背景、アルカイダの主張や考え方は、まったくわからないままです。私は、何か口封じの人殺しのように思えました。国際社会はいまだ無法状態なのかと思ったのです。
 ウサマ・ビン・ラディンはサウジアラビア有数の富豪の一族に生まれ、大都市ジッタの一流大学で経済学や経営学を学んだと聞いています。中東では、ブッシュ大統領より、ウサマ・ビン・ラディンの方が人気があるという話も聞いたことがありました。だから、留学生を装った優秀な実行犯を、何人もアメリカの飛行訓練学校に送り出し、周到に準備を進めることができたのかも知れないと思いました。でも、大勢の人を巻き添えにする前代未聞の同時多発テロです。深い思いや緻密な計画がなければできることではないと思います。にもかかわらず、動機も、意図も、計画も、方法も、何も聞くことなく殺してしまいました。だから、後世に何の教訓も残すことができないと思います。第一、本当にウサマ・ビン・ラディンが命じたのかどうかさえもわかりません。だから私は、ウサマ・ビン・ラディンの殺害は、法を無視した野蛮な報復であると思いました。

 安倍晋三元首相が銃撃・殺害されて以降、山上容疑者の“宗教二世”としての過酷な生育環境が次第に明らかになり、世間では、彼に同情する声も多々聞かれるようになりました。そして、山上容疑者の減刑を求める署名運動もなされていると聞いています。無抵抗の人間を、背後から銃撃するなどということは、決して許されることではありませんが、詳しいことがわかると、いろいろ考えさせられる問題があるということだと思います。政治家と旧統一教会の関係が厳しく問われているのも、山上容疑者の“宗教二世”としての過酷な生育環境が次第に明らかになってきたからだと思います。

 だから、ウサマ・ビン・ラディン容疑者も、アイマン・ザワヒリ容疑者も、何も確かめないで殺してしまってはいけないと思います。何の教訓も引き出せず、憎しみだけが残って、負の連鎖が続くことになるからです。
 ウサマ・ビン・ラディン容疑者殺害の一報が伝えられた時、当時のオバマ大統領が、記者会見を開いて語ったのが、“Justice has been done(正義はなされた)”でした。驚きました。私には、受け入れ難い言葉でした。法に基づかない単なる報復が、どうして正義なのかと思ったのです。
 そういうアメリカには、チョムスキーの「アメリカは、世界一のならず者国家」という言葉があてはまると思います。

 そして、アメリカは、ドミノ理論に取りつかれて、インドネシアでも、国際法を無視した多くの過ちを犯しています。『CIA秘録』(上巻)によれば、CIAは、マシュミ党に選挙資金として、およそ百万ドルを注ぎ込んり、インドネシア全土の「反スカルノ軍司令官」に「武器およびその他の軍事援助」を提供したり、反乱軍将校の「決意と士気と団結を高める」取り組みを展開したり、ジャワ島の非共産主義ないし反共産主義分子を単独、あるいは、合同で行動を起こすよう刺激したりしたのです。
 それが、その後、以前に取り上げたインドネシア共産党やその支持者の大量虐殺事件につながっていくのです。インドネシア共産党書記長をはじめ、共産主義者やその支持者約50万が虐殺されたといいます。だから、「20世紀最大の虐殺の一つ」と言われるようですが、正確な数はわからず、なかには、300万人との説もあるようです。スカルノから政権を奪取したスハルトが関与した残虐な大虐殺は、1965年9月30日事件直後から1966年3月ごろまで、スマトラ、ジャワ、バリなどの各地で続いたということですが、インドネシア全土を巻き込んだ共産主義者一掃キャンペーンに、アメリカ政府と中央情報局(CIA)が関与し、当時の反共団体に活動資金を供与したり、CIAが作成した共産党幹部のリストをインドネシアの諜報機関に渡していたことを記録した公文書があるというのですから、大問題だと思います。

 下記は、「インドネシア9・30クーデターの謎を解く」千野境子(草思社)から、読み過ごすことのできない部分をいくつか抜粋したものです。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       第四章 アメリカの工作 

アイゼンハワーとダレスの時代
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 アメリカは宗主国フランスのベトナムからの撤退(1954年7月)を受けて、ベトナムに介入した理由は、いわゆるドミノ理論に基づいていた。ドワイト・アイゼンハワー大統領はイギリスのサー・ウィンストン・チャーチル首相に宛てた1954年4月4日の書簡でこう述べている。
”もし彼ら(フランス)が最後まで面倒をみず、インドシナが共産主義者の手に渡れば、アジア太平洋における勢力分布はそれにつれて変動し、我々とあなたの世界戦略上の立場に与える究極の影響は恐るべきものになるでしょう。そして、それは、あなたにも私にも受け入れがたいことを承知しております。そうなればどうしたらタイ、フィリピン、ビルマ、インドネシアを共産主義者から守れるでしょうか。そういう事態にさせるわけにはいきません。(ヘンリー・キッシンジャー『外交』下巻)
 
 インドシナが共産化されれば、タイ、フィリピン、ビルマ、インドネシアと東南アジアがドミノ倒しのように、次々と共産化されてしまうと憂慮したのである。
 アイゼンハワー・チャーチル書簡は日本についても言及している。ドミノが東南アジア一帯に及べば、日本は非共産圏の市場や資源先を失い、いずれ共産主義を受け入れざるを得なくなるだろう。
 日本の共産化はアメリカにとって、東南アジアの共産化以上にあってはならないシナリオだった。朝鮮半島では38度線を境界線として南北朝鮮がにらみ合い、台湾海峡を挟んでも中国と台湾の緊張がつづいていた。冷戦の主舞台は、熱い戦争への危さという点ですでに欧州からアジアにに移っていた。
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 バンドン会議への懸念
 やがてアメリカの眼は、インドシナ半島のラオスから南下して、東南アジア島嶼部のインドネシアにも光ってくる。
 それまでアメリカとインドネシアの関係は、とくに悪いものではなかった。インドネシアのオランダからの独立をめぐっても、アメリカはインドネシアを支持した。スカルノはこの頃はまで、後年のように反米主義を露わにはしていない。スカルノを貫いていたのは、インドネシアの独立であり民族主義だったといってよいだろう。
 もっともアイゼンハワー政権にとって、スカルノの闘争的で反植民地主義的言動は必ずしも好ましいものではなかった。そもそもアメリカはインドのネルー首相が強く主張する中立主義、ひいてはナショナリズムに反対だった。世界は東西対立、冷戦の時代だ。ネルー的な考え方がアジア諸国に伝染していくことは、結局は東側の共産主義を利することになると考えていたのである。
 だから1955年4月、インドネシアの高原の町バンドンで、独立間もない国々も含めて約30カ国の代表が集まり、アジア・アフリカ会議(AA会議、別名バンドン会議)が開かれることになると、アメリカは開催前から警戒心をつのらせた。
 最大の問題は、AA会議に社会主義・中国がアジアの一員として招かれたことだった。代表としてやってくる周恩来首相の外交的手腕はすでに鳴り響いていた。アメリカは会議が反植民地主義と反米主義の場と化してしまうことを恐れた。
 ・・・

 CIAの秘密工作
 しかしまさにその同じとき、アメリカは対スカルノ秘密工作に乗り出していた。インドネシアの左傾化を防ぐために、アイゼンハワー政権が「あらゆる実行可能な秘密手段」をCIAに許可したのは、AA会議開幕から19日後のことである。
 こちらはダレス弟の分担である。この秘密指令は2003年、秘密文章の解禁で明らかになった。(ティム・ワイナー『CIA秘録──その誕生から今日まで』上巻)。
 バンドン会議から5ヶ月後の1955年9月、インドネシアでは独立後初めての総選挙が行われた。国民の大多数はイスラム教徒であり、アメリカがスカルノの対抗軸になることを期待したイスラム改革派政党のマシュミ党は、第二章で書いたように、もう一つのイスラム政党ナフダトール・ウラマ(得票率18%)と票を分け合う形となり、国民党(同22%)に次ぐ第二党(同21%)に甘んじた。
 その一方、共産党(PKI)は予想以上の躍進を遂げ、第四党(同16%)となった。『CIA秘録』(上巻)によれば、CIAはこの選挙でマシュミ党に選挙資金として、およそ百万ドルを注ぎ込んだ。
 マシュミ党の不振とPKIの躍進に、西側世界とりわけアメリカが、このままではインドネシアの共産化は避けられないのではないかと不安の色を濃くしたことは想像に難くない。今や「あらゆる実行可能な秘密手段」の出番となったのだった。
 1956年から58年にかけてスマトラ島やスラウェシ(セレベス)島など外島(ジャワ島以外の総称)で起きた、地方管区の軍人たちによるスカルノ中央政府に対する相次ぐ反乱への支援がそれだる。
 アイゼンハワーがCIAに対して下したインドネシア政権転覆の命令には、三つの使命が書かれている。第一はインドネシア全土の「反スカルノ軍司令官」に「武器およびその他の軍事援助」を提供すること。第二にスマトラ島およびスラウェシ島にいる反乱軍将校の「決意と士気と団結を高める」こと。第三にジャワ島の政党「非共産主義ないし反共産主義分子を単独、あるいは、合同で行動を起こすよう刺激し」、支援することである『CIA秘録』(上巻)。
 これらのうち、1957年3月にスラウェシ島で東部インドネシア管轄の軍司令官フェンチェ・スムアル中佐が「プルメスタ(全面闘争)宣言」を発表、東部ジャワ地域を軍政下においた反乱は、一般にブルメスタと呼ばれる。その後、ブルメスタはインドネシア革命共和国政府に合流し、中央政府に抵抗を続けた。
 地方での反乱の背景には資源の偏在という問題が横たわっていた。インドネシアの天然資源はスマトラ島の石油をはじめ外島集中し、それを膨大な人口を抱えたジャワ島が消費するという構図だ。資源に恵まれながらジャワ島に収奪される形の外島は不満であり、今日でいう地方分離への要求が燻っていた。加えて外島ではマシュミ党が強かったから、ここにもスカルノとの対立の芽が潜んでいた。
 CIAはそこに手を伸ばしたのである。スマトラ島の反乱(1956年)に参加し、北スマトラでゲリラ戦を指揮したモールディン・シンボロン大佐に5万ドル相当のインドネシア通貨ルピアを与えたほか、各地で武器弾薬を供与した。支援の拠点には東南アジア最大の米軍基地があったフィリピンが使われた。
 東西ドイツ、南北朝鮮、南北ベトナムなどに見るように、米ソ冷戦体制は世界各地で分断国家を生んでいた。独立は支持したもののスカルノのその後の反米姿勢に手を焼いていたアメリカが、世界最大の島嶼国インドネシアにも分断方式を適用できないかと考えたとしても不思議ではない。おまけにスカルノのいない外島の方が資源の宝庫である。
 ・・・ブルメスタのほかに目立った反乱としては、1958年2月に西スマトラでアフマド・フセイン大佐ら軍人たちが、中央銀行総裁だったシャフルディン・ブラウィラネガラを首班とするインドネシア共和国革命政府(PRRI)の樹立を宣言している。これにはマシュミ党やインドネシア国民党の一部指導者も参加した。ダレス兄弟が歓迎したのはもちろんだった。
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 しかし反乱支援の失敗を通して、インドネシア軍の実態をよりよく知ったことはアメリカにとってマイナスではなかった。この後、アメリカは自ら直接手を下すのではなく、インドネシア軍からのアメリカ留学や合同訓練の機会を増やし、親米・反共の軍人を養成することで軍を共産党の防波堤にする方針へと変更していったのである。これによって、軍人たちの親米・知米度もあがれば、アメリカとインドネシアの軍人同士の交流も深まる。
 1953年から65年までのあいだにアメリカで訓練を受けたインドネシア人将校は2800人にのぼる。陸軍将官では17~20パーセントがこの期間にアメリカで訓練を受けたとされ、またその多くは帰国すると、今度はインストラクターとして訓練する側に回ったのだった。
 また米国防総省によれば、1949年から61年までの13年間で2800万ドルだった軍事援助は、62年から65年までの4年間で約4000万ドルへと急増した。ジョンソン政権になって反スカルノの姿勢が強まり、経済援助が減額された後も軍事援助は変わらずつづいた。
 以上のような経緯を踏まえれば、9・30事件で問われている将軍評議会の存在というものは、一層現実味をおびてくるように思う。
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 事件後の蛮行の黙認
 9・30事件で波に乗る事に成功したアメリカは、インドネシアを親中派スカルノ政権から親米派スハルト政権へと転換させることに成功した。
 しかし事件後にインドネシア各地で起きた悲惨な事態にアメリカは無力であった。もちろん、それはアメリカの責任というわけではない。とはいえ結果的に蛮行を黙認してしまったことは、アメリカの民主主義にとっても汚点となった言わざるを得ない。
 蛮行とは、CIA報告書『裏目に出たクーデター』が「1930年代のソ連の粛清、第二次世界大戦中のナチスの大量殺人、1950年代の毛沢東主義者の大量虐殺とともにニ十世紀に起きた最悪の大量殺人の一つ」と記した未曽有の混乱と悲劇が中部ジャワを中心として地方各地で起きたことである。
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