真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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インドネシア、スハルト政権の東チモール侵略とアメリカNO2

2022年08月11日 | 国際・政治

 私は、現在の人類が抱える諸問題は、アメリカが根本的に方針転換をして、常に法や国際条約、道義・道徳に基づく対外政策を進める国に変らなければ、解決しないように思います。
 ウクライナ戦争も、アメリカがゼレンスキー政権を背後から操っているように思います。なぜなら、他国の政権を背後から操り、社会主義政権や民族解放戦線などを潰しにかかったアメリカの対外政策の例は、あちこちにあり、東チモール問題もその一つだと思われるからです。
 前稿でふれましたが、インドネシアが東チモールに軍事介入し、ディリーを攻撃、全面侵攻した1975年12月7日の2日前、すなわち12月5日、アメリカのフォード大統領とキッシンジャー国務長官がインドネシアを公式訪問し、スハルト大統領に会っているのです。だから、フォード大統領がスハルト大統領に軍事援助を約束し、インドネシアの東チモール侵略にゴーサインを与えたといわれているのです。
 また、1975年12月12日には、国連安全保障理事会がインドネシアの即時撤退を求める決議を可決したにもかかわらず、インドネシアのスハルト政権は1976年年7月17日に、東チモールをインドネシアの27番目の州として併合宣言を行っています。アメリカの合意がなければできることではないと思います。そして、現実に欧米や日本などは、反共の立場をとるインドネシアのスハルト政権との関係を重視したのでしょう、併合を黙認しているのです。

 そうしたスハルト政権の姿勢は、ウクライナにおけるゼレンスキー政権の姿勢に通じるものがあると思います。ゼレンスキー大統領は、ロシア軍が侵攻を開始するや否や、ロシアに対し、撤退を呼びかけるのではなく、ウクライナの一般住民に武器を取って抵抗するように呼びかけました。ウクライナが単独でロシアと戦争できるわけはないのにおかしいと思います。
 だから、アメリカがヨーロッパに対するロシアの影響力拡大を阻止し、ロシアを弱体化させる目的で、ウクライナの親米派に働きかけ、ヤヌコビッチ社会主義政権を転覆させ、ロシアとの戦争に踏み切らせたのだろう、と私は思います。バイデン大統領が副大統領時代に、6回もウクライナを訪れていたということは、そうしたことを物語っているように思います。

 でも、現在の日本では、ロシアを「悪」とし、プーチン大統領を「悪魔」に仕立て上げるような論調が圧倒的だと思います。ウクライナ戦争を語るときには、いつも、”ロシアのウクライナ侵攻後…”とか、”ロシア軍のウクライナ侵攻によって…”という言葉からはじまるのも、ロシアを「悪」とする受け止め方のあらわれであるように思います。8月6日の朝日新聞「天声人語」に、”…77回目の原爆忌である。これまで核軍縮が何度叫ばれて、何度裏切られてきたことか。核不拡散条約の会議が始まったのを機に、ロシアのプーチン大統領が「核戦争に勝者はいない」との声明を出した。しかしあなたこそが、核の使用をちらつかせていたではないか…”とありました。私は、またか、と思いました。同意できるところを足がかりに、問題解決への道を歩もうとするのではなく、同意できない部分を強調し、相手を屈服させようとしているように思ったのです。

 原爆や核兵器の問題に関しても、私は今まで、何度か取り上げてきました。印象に残っているのは、アメリカが日本に原爆を投下する前、多くの学者や関係者が、様々な提言をして、投下に反対したという事実です。例えば、シカゴ大学の7名の科学者で構成された「社会的・政治的意義委員会」のメンバーであったシラードは、同僚69名の署名を添えて原爆使用反対の請願を提出しています。彼は、原子力政策について政府は科学者たちと討議する必要があるとも主張していたのです。でも、こうした科学者の懸命な努力は受け入れられませんでした。

 ふり返れば、ヤルタ会談で、8月8日ころのソ連の参戦が約束されていました。アメリカ軍の日本本土上陸作戦は11月1日の計画でした。また、アメリカは、日本の和平派の動きを察知し、日本の降伏が近いことも知っていたのです。したがって、日本の降伏のために、原爆投下をそんなに急ぐ必要はなかったのです。にもかかわらず、ソ連参戦前の8月6日に原爆を投下しました。だから、広島6日・長崎9日の原爆投下は、日本を降伏させるためというより、戦後をにらんだアメリカの戦略であったといわれています。ヤルタ会談でソ連に対日参戦を求めていたアメリカが、ニューメキシコ州アラモゴルドにおける原爆実験成功をきっかけに、その戦略を一変させ、ソ連参戦の前に日本を降伏させようと動いたということです。結果的に、それは多くの科学者の指摘した通り、ソ連には「脅し」となり、無原則な核軍拡競争の時代に入るのです。

 「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」鳥居民(草思社文庫)の記述は、私には、衝撃的でした。トルーマンンは、広島・長崎への原爆投下について、戦後、「百万人のアメリカ兵の生命を救うために、原爆を投下したのだ」と語りましたが、同書によると、当時のアメリカ軍の首脳は、誰も、百万人の犠牲者など考えていなかったし、そんな数字を挙げたこともなかったといいます。百万人の犠牲者という数字が登場したのは、戦後、原爆投下に対する批判や非難の声が高まってからの創作であり、原爆投下の前に、日本の降伏は確実な状況にあったのです。(スティムソン論文の百万人の数字が根拠のないものであったことは、この論文のゴーストライターを務めたマクジョージ・バンディに、NHK取材班が確認しています)。したがって、「百万人のアメリカ兵の生命を救うため…」という原爆投下の目的は虚偽説明であり、プロパガンダだったのです。

 また、原爆の使用決定の経緯に関する最も詳細な資料は、R・G・ヒューレットとO・E・アンダーソンの The New World Vol.1(1962年)であるとされています。この本は、アメリカ原子力委員会(AEC)が生まれるまでの前史(1939ー46年)を、AECの歴史諮問委員会の意を体して書いたものでその意味では官製の歴史であるが、トルーマン大統領をはじめ、原爆使用問題の最高意思決定に参加した人々の行動および意見がきわめて詳細に記録されているといいます。その中に、下記のようにあるのです。

 ”ソ連参戦に対するアメリカの考えは、次のような順序で変化していった。
(1) 本土上陸作戦の犠牲を減らすためにソ連参戦は絶対の要請である。ヤルタ協定は受け入れなければならない。
(2) ヨーロッパにおけるソ連の行動はヤルタ協定の価値に疑問を投げた。しかし、ソ連参戦は必要であるから忍耐すべきである。
(3) 原爆の完成によって、アメリカの立場は強化され、ソ連の参戦は不必要になった。
(4) ソ連を遠くまで進出させてはならない。できればソ連参戦の前に、戦争を終わらせるべきである。
(5) そのために、対日降伏勧告と原爆投下を急ぐべきである。前者にはソ連を参加させない。また後者はソ連に知らせない方がよい。 
(6) 早期降伏を確実にするため、原爆投下は一発より二発の方がよい。
 すべての外交的修辞を剥ぎ取れば、原爆使用に至るまでのアメリカ首脳部の本心は以上のようになる。それ以外にあり得ないというのが ”The New World ”の記録から引き出される結論である。

 だから私は、プーチン大統領を、”あなたこそが、核の使用をちらつかせていたではないか”と非難するだけでなく、現実に国際法に違反する原爆を投下し、今なお、その謝罪や補償をすることなく、「百万人のアメリカ兵の生命を救うために、原爆を投下したのだ」などと正当化し、あちこちに核兵器を配備しているアメリカに対して、方針転換を求めてほしいと思います。
 プーチン大統領の発言には問題があるとは思いますが、最大の問題は、現実に原爆を投下したアメリカが、その過ちを認め、謝罪や補償に向うことなく、今なおあちこちに核兵器を配備していることではないか、と私は思うのです。

 「悲劇の島・東チモール」(築地書館)の著者、島田昱郎教授の、”東チモールに自決権を!、東チモールに独立と平和を!”という訴えは、多くの人たちの努力によって、1999年8月30日に、国連主導の住民投票が実施され、2002年5月20日、実現されました。でも、東チモールに侵略したインドネシア、スハルト政権の犯罪行為やスハルト政権を支援したアメリカの対外政策の問題は、消えてなくなるわけではないと思います。だから私は、ウクライナ戦争が続く現在、停戦・和解のために、それを問いたいと思います。
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                        Ⅲ 悲劇の島

5 東チモール問題
 東チモール紛争については、紛争の起こった1975年8月から約1年間、スクラップにしておいた新聞記事の資料を参考にして、主に紛争の経過を客観的に述べておきました。
 インドネシアの強引な一方的な併合(76年7月)があってから、76年8月以降は約3年間余、東チモールに関する報道記事はなかった(注意してはいたが、私の目にとまらなかった)ように思います。
 3年ともなると、ますます忘れ去られていく島として、また、市販されている世界地図からチモール島の東半分に、(ポ)のマークが消えてしまい、いつのまに国連で承認されたのかと、不信と心痛の気持でした。
 そして、東チモールへ、インドネシアのジャカルタ経由とオーストラリアのダーウィン経由で、東チモールで知り合った方々に手紙を出してみましたが、返信は何もありませんでした。
 東チモールがインドネシアに併合されてから、3年後の79年(昭和54年)11月25日の新聞(朝日)に、”東チモール独立革命戦線の住民たち”の記事が掲載されていました。それには、──もう一つの難民、6万人が栄養失調、追い詰められる山岳生活──の見出しで、6万人余りが栄養失調に苦しみ、一部は飢餓の症状を示している。そして、”もう一つのカンボジア難民”という見方も出てきていると、悲惨な状況を報道していました。
 また、7日後の79年12月1日付朝日新聞「声」の欄に、前田透先生の「東チモールに救援を」の投降が掲載されていました。これは、ジャカルタ経由でチモールにから華僑とチモール人の二通の手紙が4年ぶりで届き、その手紙の内容を通して救援を訴えたものです。
 前田先生の「声」に掲載された投稿記事の一部を再録してみます。
「二人は太平洋戦争の時、子供で私になついていた。二人の手紙には、本紙記事『6万人が栄養失調』と、ほとんど同じ内容のことが書かれていた。”郷村の家は焼かれ、餓死体が山野に散乱、悪疫が流行し医療の方法がない。家族は四散し希望がない”と華僑は書き、”何でもいいから救援物資を司祭あてに送ってほしい”とチモール人は訴えている。戦争中は、3年以上も日本軍が占領していたのだ。日赤か政府機関で救援の窓口をつくってほしい。余剰米の緊急輸送など考えられないだろうか。カンボジアはここにもある」前田先生に届いたジャカルタ経由の手紙は、4年余りの歳月がかかっているようでした。そして、こういう手紙は出せなかったのであろうとも書いています。
 私の東チモールへの手紙が届いたか否かは、返信もないのでわかりません。東チモールに関する郵便物は、おそらくインドネシア軍の厳しい検閲があったのでしょう。まさに、これもインドネシア軍の人権侵害の一面でしょう。
 
 さらに、79年12月28日付新聞(朝日)に、──東チモールに笑顔なし、飢え、病む難民──の見出しで、敗れさった独立派ゲリラの難民たちを訪れた山口特派員(朝日)の記事が掲載されていました。
 ジャカルタでなく、ディリー(インドネシア)とありましたが、東チモールのディリー発信は、東チモール紛争後、初めてではなかったでしょうか。
 山口特派員は、東チモールの山岳地帯や海岸沿いの収容キャンプを回って、実態を見聞きした限りでは、死亡率といい、栄養失調状態といい、少なくとも救援が届くまでは、タイへ流出するカンボジア難民の状況に酷似していたと記しています。
 また、救援活動をしている国際赤十字の医者は、「東チモールの人に笑顔がみられない」という状態です。そして、インドネシア政府が背負いこんだ27番目の州(東チモール)の経済振興のくびきは、それだけに重かろう、と深刻に報道していました。
 難民の死亡率にもふれています。難民収容キャンプの死亡率は、1ヶ月平均1000人あたり28人の割合です。これは、タイのカンボジア難民キャンプ”サケオ”での収容当初の死亡率が、月平均1000人に25~30人だったから、カンボジア難民に匹敵する窮状であったことは明らかだ、と記されています。
 また、インドネシアの東チモール州政府の男子職員が難民の様相について、”その悲惨さに涙が止まらなかった。栄養失調でやせ細り、白眼を見せて死亡寸前の乳児を思わず母親から抱きとり、州都まで車で連れて帰った。ミルク不足のため、チョコレートを溶かして飲ませ一命をとりとめた”と山口特派員に語った記事も報道されていました。
 インドネシアが東チモールを併合して3年余り、山口特派員(朝日)の報道記事以外、私には、東チモールの情報は何一つ得られませんでした。おそらく、インドネシア軍とフレテリンの闘争は、くりかえし行われ、また、インドネシア軍のチモール住民に対する残虐行為はひどく、想像を絶するものであったことでしょう。
 その難民に対して、田中淳夫さんの著書のなかにも、”残ったのは何十万人もの飢餓に直面した難民だった。彼らは、その多くがインドネシアの作った収容所に入れられたが、なんら食料や医療の満足すべき配給はないままだった”と書かれています。
 チモール難民は、まさに”カンボジア難民”に匹敵するものでした。
 しばらく年月がたち1985年(昭和60年)の秋に、ポルトガル領東チモールへの渡航をともにした永田道紘さんから来便がありました。そのなかに、読売新聞(85年10月19日付)の東チモールの記事が入っていました。
 それは、──暗やみの東チモール、インドネシア併合から9年、情報途絶え現況はナゾ──の見出しで、鈴木雅明記者(読売)の報道記事です。
 ここで、”東チモール問題”の語句が登場してきました。
”東チモール問題”──と言っても、具体的に何を指すか知る人は日本では少ないだろう。インドネシアによって軍事的に併合されたこの島で、何が起きているのか。外部から閉ざされた東チモールに関する情報はあまりにも少なく、カンボジアやアフガニスタン問題の陰に隠れて、忘れ去られようとしている。との書きだしからはじまっていて、住民の大虐殺説も報道されていました。
 そして、鈴木記者はジャーナリストの訪問は厳しく制限されていて、東チモールに関する客観的情報は非常に乏しい。情報の信ぴょう性を立証する手段すら欠けている。もしかしたら、東チモールのなぞはこのまま葬り去られていくのかもしれない。と危機感を伝えていました。
 私は、75年東チモールでクーデターが起き、”東チモール紛争”から10年、インドネシア併合から9年、ここで、初めて、”東チモール問題”の語句が視覚を捉えたような気がします。”東チモール問題”とは、、おそらく、東チモール紛争から、国連の決議を無視して強引にすすめたインドネシア軍の東チモール侵攻、併合を、全部含めたものであろうと考えていました。
 鈴木記者は”東チモール問題”について、第一にインドネシア併合の合法性、第二に併合以来、インドネシア当局が行っているとされる住民への迫害があげられるとしています。
 そして、世界人権擁護組織”アムネスティ・インターナショナル”が、東チモールの人権侵害問題を重点課題にあげていることからも、いまでは、第二の面に関心があつまっている。と指摘していました。
 インドネシアの東チモール併合に、合法性があろうはずがありませんし、人権侵害の件とともに”東チモール問題”は、14年たった現在も問いかけられています。そして、これからも東チモール人に自決権、そして独立の日まで続けられていくことでしょう。
 東チモールがインドネシアに併合されてから、インドネシアの東チモールの住民に対する迫害の残酷さがひどいものであったことについては、これまで断片的ながら述べてきました。ここでは、数年間の新聞やその他の記事から、凝視・注目すべき事態を二、三とりあげ、熟考してみたいと思います。
 まず、1986年(昭和61年)9月11日付の新聞(読売)の──貧困脱しきれぬ東チモール、インドネシア併合満十年──の国際欄の記事です。
 これは、浜本良一特派員(読売)の西チモールからのルポです。インドネシア人でも東チモールに入るには軍の許可証が必要なのです。まして、日本人記者としては、とても東チモールに入れず、西チモールに行って東チモールの情報を集めてみたものです。
 このなかで、インドネシア政府の東チモールの開発費が途中で消えてしまう。つまり、役人の不正行為の件をあげています。これは、浜本特派員がカラスカラオ・東チモール州知事から聴取した、次のような東チモールの現状の問題点です。
① インドネシア政府の移住政策のまずさ。
② 中央政府から派遣されている役人の不正行為──開発予算の4割はディリーに届かないで役人の懐に消えてしまう。
③ すべてはインドネシア軍の主導で決定され、知事の権限はきわめて限られている。
 この三点を報道しています。
 私は、知事の不平でしょうが、インドネシア政府の移住政策を、気になる問題として受けとめています。
 インドネシアは、1億7000人余の人口をもち、とくにジャワ島に集中しています。それで、この集中人口を分散させるために、スマトラ、ボルネオのカリマンタン島のほかに東チモールに入植させているのです。
 また、この移住政策の問題に関連して、浜本特派員の次のような記事が目につきます。
”東チモールが過去四世紀以上、カトリック文化(人口の8割はキリスト教徒)だった事実を挙げ、併合前までイスラム教寺院などなかった。外部からのジャワ化と同時にイスラム化があらゆる面で微妙な影を投げかけている”の記事です。
 これは、明らかに移住政策に関連した宗教の変化とみることができるでしょう。また、私には、これは東チモールに強制的な信教の自由までおびやかし、ジャワ化をねらっている東チモール人へのインドネシア政府の意図の一面ともうかがえます。

 次に、田中淳夫さんの著書のⅣ章 ”知られざる虐殺の島”のなかに、人口問題について、注目すべき記事があります。それを再録してみます。
”人口に関して問題にすべき点に、インドネシア政府は東チモールにおいて産児制限を実施していることがある。これは世界銀行からの出資も受けている。だが、もともと東チモールは過疎地なのである。インドネシアは全土的に人口抑制策をとっているが、その一方で東チモールに移住者を増やしている。これは東チモールにおけるチモール人比率の減少を狙っているものと思われる。
 しかも、産児制限にはチモール人の意志を無視した避妊手術や避妊薬投与が行われている。特にデボ・プロベラという避妊注射のように、すでに海外では禁止されている有害な薬まで使われているのだ。その他、教育もインドネシア語が用いられ、チモール人のインドネシア化は急速に進められている”
 これも、明らかにインドネシア政府およびインドネシア軍の東チモール人への残虐的迫害でしょう。
 Ⅱ章の東チモールの言語のところでふれておきましたが、東チモール人は、ポルトガル植民地時代にポルトガル語の教育をうけましたが、あまりポルトガル語は話しません。土民語のテトウン語です。
 多種族、多宗教、多言語のインドネシアで、インドネシア語に統一するのは、まず無理でしょう。太平洋戦争中、侵略占領時の日本軍の強制的な日本語教育のやり方も、東チモール侵略のインドネシアに似ています。
 ”東チモール問題”の第二の人権侵害、迫害問題ですが、東チモール紛争以来、東チモール人60数万の人口のうち、未確認の情報ですが、すでに三分の一の20万人は犠牲になったといわれています。
 また、インドネシア政府の東チモール人への産児制限、ジャワ人の移住政策など、インドネシアの意図は何なのでしょうか。ひたすら東チモール人の減少を、テトウン語を話すチモール民族の減少を狙っている以外には、何もないのではないでしょうか。
 なお、インドネシアが、東チモールで産児制限に避妊薬を強制していることについて、古沢希代子さん(東京女子大講師)の寄稿が、89年7月21日の「朝日ジャーナル」に掲載されています。
 これは、インドネシア・スハルト大統領の強引な家族計画の一端なのですが、東チモールで集中的な産児制限政策を推し進められているとして、古沢さんはその概要と、人権無視の行為について紹介しています。
 家族計画に反対して、これは民族絶滅のための新たな手段だと声をあげた人たちが、逮捕されて拷問をうけたらしいことにもふれています。
 そして、なんと国連が、東チモール人の人権を無視しても、世界第五位の人口大国インドネシアが人口を減らすことの功績をたたえるということで、こともあろうにスハルト大統領に国連人口賞を贈ったのです。デクエヤル国連事務総長がスハルト大統領に、人口賞を授与している写真も、朝日ジャーナル誌に載っていました。
 世界の国連は、ここまで堕落してきたのでしょうか。私は権威を失った国連として、改めて一つの空しさを感じています。
 ”東チモール問題”。鈴木雅明記者(読売)の指摘した、第一にインドネシア併合の合法性、第二に併合以来、インドネシア当局が行った東チモール住民への迫害、人権の問題。
 私は、この二つの”東チモール問題”は、今後、国連で真剣に討議してもらいたいと思います。
”東チモールに自決権を”の闘争は今後も真剣に続けられていくことでしょう。
 


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