ウクライナ戦争に関わる新聞の記事を読むたびに、私は苛立ちを感じる毎日を送っています。大変な犠牲者を出し、日本が滅亡しかねないという悲惨な状況で降伏した日本は、戦後、二度と戦争をしないと決意して出発したはずだと思います。日本国憲法の平和主義の精神は、ごく一部の軍人や戦争指導者を除いて、ほとんどの日本人の思いを体現するものであったと思います。でも、ウクライナ戦争が続く現在、アメリカやウクライナからもたらされるプロパガンダによって、日本人の、その平和主義の精神があっけなく、日々崩れ去っていくのを感じます。
以前取り上げましたが、東京大学の和田春樹名誉教授は、ロシア史研究仲間とともにウクライナ戦争の「即時停戦を求める声明」を発表しました。でも、ツイッター上で目立ったのは、賛同の声ではなかったといいます。「停戦ではなくてロシアの全面撤退を求めろよ」とか「徹底抗戦しようとするウクライナ政府や国民の意思を無視している」というような声だったというのです。戦争体験者の多くが生きていた時代には、考えられない反応だと思います。
現在日本の若者が、「ロシアがウクライナの日常を一方的に奪う理不尽さに、居てもたってもいられなくなった」とか、いままで、「侵略と自衛による戦いの違いもあいまいにしたまま”思考停止”していた」というような考え方をするのは、ウクライナ戦争の経緯や背景、ロシア側の主張などが正しく伝えられておらず、客観的事実認識に問題があるからだろうと思います。メディアの報道が公平であれば、”ロシアがウクライナの日常を一方的に奪う理不尽さ”とか、”侵略と自衛による戦いの違い”とかいうような捉え方が、多数を占めることはなかったと思います。大本営発表を信じた「過ち」のくり返しのように思います。
人類は悲惨な戦争をくり返しながら、さまざまな法や国際条約を成立させ、組織をつくってきました。だから、そうした歴史の進歩に背を向けなければ、ウクライナ戦争は起きなかったし、ウクライナ戦争の停戦・和解も可能なのだと思います。でも、戦争が始まり、停戦・和解の見通しが立ちません。そしてそれは、主にアメリカの対外政策や外交方針に問題があるからだ、と私は思っています。
それで、いろいろな紛争や戦争をふり返って、アメリカの対外政策や外交方針の問題を取り上げ、考え続けています。ウクライナ戦争にも共通であると思うからです。
今回は、「アメリカの陰謀とヘンリー・キッシンジャー」クリストファー・ヒッチンス:訳・井上泰浩(集英社)から、見逃すことのできない、アメリカのバングラデシュにおける大虐殺黙認の抗議電文を取り上げることにしました。
アメリカには、外国に派遣された領事館の職員が、自らの政府を、”もはやわれわれの政府に道義心など残っていないことは明らかだ”などと痛烈に批判することのできる自由があります。でも、その自由が、アメリカの国民に限られていることを見逃してはならないと思います。
アメリカ政府の対外政策や外交は極めて差別的であり、権力主義的であり、武力主義的であって、決して民主的ではなく、自由主義的でもないのです。それが、”もはやわれわれの政府に道義心など残っていないことは明らかだ”という言葉にあらわれていると思います。
パキスタンの軍事政権が、アメリカの軍事支援プログラムによって供給された機関銃などの兵器を利用し、バングラデシュで民族大虐殺をくり返しているのに、ニクソンやキッシンジャーは、虐殺の首謀者カーン将軍を諫めるどころか、「ある気配り」への謝意を伝える書簡を送っているというのです。
アメリカは、自国の利益のためには、カーン将軍が歴史上最も非道な戦争犯罪をくり返していたときでさえ、そのカーン将軍に「ある気配り」への謝意を伝え、良好な関係を維持するのです。それが、アメリカの対外政策や外交方針の基本姿勢のように思います。
大きな犠牲を払いながら、法や条約や組織を発展させてきた国際社会の歩みに逆行することは明らかです。
だから、ウクライナの内政に対する干渉も、ウクライナ戦争に対する直接的な関わりやアメリカの意図も隠しながら、ウクライナ戦争を主導するアメリカに、国際社会の歩みに沿った行動をしつこく求めたいと思うのです。人命や人権を尊重する立場に立つのであれば、即時、停戦・和解が求められると思います。
ウクライナ戦争の停戦・和解が進められないと、今度は、台湾が第二のウクライナになってしまうのではないかと心配しています。
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第四章 バングラデシュの集団虐殺、クーデター、暗殺
米国外交の歴史をひもとくと、これからも語り継がれる多くの人道的な活躍が記されている。もちろん、非道な外交政策も数多くある。米国外交の金字塔のひとつに、1915年の駐オスマントルコ大使だったヘンリー・モーゲンソーの活躍が挙げられるだろう。秘密情報を手に入れたモーゲンソー大使は、アルメニア政府が行った少数民族の計画的集団大虐殺の全容を報告した。ニ十世紀に起きた初の民族大虐殺だ。民族大虐殺を意味するジェノサイド(Genocide)という言葉は当時なかった。モーゲンソー大使は、民族殺人(Race Murder)という言葉を使った。
1971年には、ジェノサイドという言葉は一般にも使われるようになった。それは、当時東パキスタンと呼ばれた地域にあった米国領事館から送られた一通の抗議の電報から始まった。そこはパキスタンのベンガル人が支配する地域で、バングラデシュとも呼ばれた地域だ。この電報はバングラデシュの首都ダッカの米国領事館アーチャー・ブラッドを筆頭に、連名で1971年4月6日に書かれた。「血の(ブラッド)電報」と呼んでいいだろう。モーゲンソー大使の電文のように、この電報もワシントンに直接送られたが、内容はただのバングラデシュの状況報告ではなかった。要旨はこうだった。
”われわれ政府は民主主義に対する弾圧をみすごしている。われわれ政府は残虐行為に対し目をつむっている。国民を保護するための確固とした手段を取っておらず、政府を支配する西パキスタンの肩を持ち、彼らに向けられた国際社会の批判をかわそうとしている。もはやわれわれの政府に道義心など残っていないことは明らかだ。皮肉にも、ソビエト連邦はパキスタンのヤヒア・カーン大統領に民主主義を守るように求める書簡を送り、国民投票で選ばれた指導者ムジブ・ラーマンの逮捕を非難している。抑圧と流血をただちに中止するよう求めている。……しかし、われわれの政府は、アワミ紛争は独立国家の内政問題であるとして不介入を決めた。不幸にも、この紛争は民族集団大虐殺なのだ。米国の市民は、不快感を表している。われわれ政府職員は、現在の政策に対し異議を表明し、われわれにとっての本当の利益を再確認し、政策を転換されるよう強く求める。
この電文はバングラデシュ駐在の米国外交官20人が署名した。国務省に届いたあとに、南アジア部局の7人の高等職員も書名に加わった。これほど強い批判を直接訴えた国務省職員による国務省への申し入れは、これまでに例がない。
バングラデシュは、この抗議文が書かれるのも不思議ではない状況だった。1970年12月パキスタンの軍部上層部はここ10年来で初の公開選挙実施を認めた。総選挙ではベンガル人からなるアワミ連合の指導者シーク・ムジム・ラーマンが圧勝し、国会でも同連合が過半数を制した。東部だけでも、169席中167席をを同連合に所属する議員が占めた。選挙結果は、西パキスタン側にとって政治的・軍事的・経済的脅威となったわけだ。国会は1971年3月3日に初召集される予定だった。しかし、3月1日、政権から退くことになっていた軍事政権の最高司令官ヤヒア・カーン将軍は、国会召集の延期を決めた。そのため、バングラデシュのある東部各地で大規模な抗議行動がわき起こった。
3月25日、パキスタン軍はダッカに侵攻した。ムジブ・ラーマンを拘束し西パキスタンに連行したあと、ラーマン支持者の暗殺を始めた。軍の侵攻前に、外国人ジャーナリストたちはダッカから退去処分を受けていた。しかし、そこで何が起こっていたのかは、米国領事館が運営するラジオ放送によって報告されていた。総領事のアーチャー・ブラッド自身も、パキスタン軍による虐殺事件の報告書を国務省とキッシンジャーが議長を務める国家安全保障会議に送っている。その事件というのは、パキスタンの正規軍がダッカ大学の女子寮に放火し、建物から逃げ出してきた女子学生を待ち受けていた兵士が機銃掃射したというものだ。この事件で使われた機関銃などの兵器は、米国の軍事支援プログラムによってパキスタンに供給されたものだ。
現地に残って取材を続けたアンソニー・マスカーヒーナス記者によって、ほかにも多くの惨事が英国の有力紙『タイムズ』や『サンデー・タイムズ』に送られ、世界を震撼させた。パキスタン軍部はバングラデシュの人びとの抗議活動を抑圧するために、強姦、殺人、手足の切断、子供の殺害などをくり返しおこなった。この侵攻から3日間で、少なくとも1万人以上の市民が虐殺された。最終的な死亡者の数は、どんなに少なく見積もっても50万人はくだらず、300万人にものぼるといわれる。ほとんどのベンガル人たちがパキスタンの軍事政権による迫害の危機にあったため、数百万人、おそらく1000万人にのぼる難民がインド国境に向って避難し始めた。
ここまでを要約すると、パキスタン軍部は民主選挙の結果を踏みにじり、バングラデシュで民族大虐殺を実行し、国際的な問題に発展したということだ。事件直後、ニュー・デリー駐在のケネス・キーティング米国大使はブラッド総領事らの集団抗議に加わった。ニューヨーク州選出の上院議員であったキーティングは、含蓄のある言葉をちりばめて1971年3月29日に政府に電報を打った。この残虐行為の実行者に対し毅然とした態度を取り、実効ある対応をすべきときである、とキーティングはワシントンに進言している。キーティングはさらに、「政府は速やかに、公然と、そして深くこのたびの暴挙を悔いるべきだ……身の毛もよだつ事実がこれから判明する。その前に、ただちに行動を取ることは危急の課題である」と警告した。
ニクソンとキッシンジャーはただちに動いた。アーチャー・ブラッドは総領事を外され、キーティング大使については「インド人にやり込められたな」とニクソンが罵っている。1971年4月下旬、集団虐殺がピークを迎えていたそのとき、キッシンジャーは虐殺の首謀者カーン将軍に対し、「ある気配り」への謝意を伝える書簡を送っている。
カーン将軍が歴史上最も非道な戦争犯罪をくり返していたとき、このように感謝された理由はなぜだろう。1971年4月、中国から米国に思いもよらない招待状が届いた。北京でおこなわれる試合へ米国の卓球チームが招かれたのだ。米国側は受諾した。この月の終わりには中国政府がニクソンに対し使節派遣を求める書簡を送っている。これらの仲介役を果たしたのが駐米パキスタン大使だった。こういった背景があったのだ。
しかし、ワシントンと北京をつなぐ裏ルートはパキスタン・ルートのほかにもあった。ルーマニアのチャウシェスク・ルートだ。あまりいいルートとはいえないが、当時、チャウシェスクは世に知られた犯罪者ではなかった。中国首脳の周恩来との交渉で、「気配り」のあるヤヒア・カーンのような冷血暴君を仲介者として使う必要はなかったのだ。この時代を専門にする歴史学者の第一人者ローレンス・リフシュルツはこういう。
国家安全保障会議でキッシンジャーの補佐を務めていたウインストン・ロードの証言によると、バングラデシュで起きた虐殺を政府上層部は理解しがたい理由で正当化していた。ロードは「わが国は信頼できるということを中国に示さなければならなかった。また、わが国はたがいの友を尊重しますよ、ということも中国に理解してもらう必要があった」と[カーネギー財団国際平和研究所の研究員に対して]話している。20年も中国と敵対しておいて、凄惨な内戦の起きたパキスタンに支持を表明することが、中国に対して「米国は信頼して交渉できる政府」の証しになるとでも思っていたのだろうか。米国内外からも、単なるこじつけとしか見られていない。パキスタン政府との関係をワシントンは変えるつもりがなかったので、放っておけばいいと判断したのだろう。
こうしたパキスタンに対する米国政府の外交姿勢を読み取っていたため、カーン将軍の行動に歯止めが利かなくなってしまった。カーン将軍はG・W・チョウドリー諜報相ら軍政閣僚に対し、ワシントンと北京との裏取引を握っているから自分にはだれも手を出せない、と話している。チョウドリーは「もしニクソンとキッシンジャーが将軍を誤解させていなければ、彼はもう少し現実を直視していたはずだ」とのちに記している。中国との交渉で民族大虐殺の首謀者カーン将軍と結託していたということは、ニクソンとキッシンジャーも大虐殺に関わっていたということになる。ここまで読まれて、こんな疑問を持たれる読者もおられるだろう──なぜキッシンジャーは独裁・全体主義政権との裏ルートに頼って中国との外交を進めたのだろうか。オープンな外交はできなかったのか。答えは、ニクソンとキッシンジャーは秘密政治がお得意だったということだろう。
キッシンジャーが進めた中国との裏交渉を守ることが、何十万、何百万ものベンガル人犠牲者に値するとは断じていえない。しかし、残念なことに、ベンガル人はキッシンジャーのメンツと手柄のために犠牲になったと疑わざるを得ない情報が次々と現れているのだ。つまり、インドに敵意を持つ自分のボス、ニクソンを喜ばせ、またバングラデシュが独立国家になることを阻止する目的で、キッシンジャーのバングラデシュ政策が立案されたのではないだろうか。
よく使われる外交用語に、TILT(チルト)という言葉がある。ゆがんだ外交姿勢を指す言葉だ。この言葉の語源は、次の凄惨なエピソードに由来する。1971年3月6日、キッシンジャーは国家安全保障会議を召集した。東西パキスタンの対立から衝突は避けられない情勢になったころだ。この会議で、キッシンジャーはいかなる事前の策も取らないよう要請した。会議出席者からは、カーン将軍に対し、民主的におこなわれた選挙の結果を尊重するよう警告すべきだという意見が出た。しかし、キッシンジャーは断固反対した。このあとキッシンジャーが取った政策は、すでに述べたとおりだ。
・・・以下略