真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカのプラット修正条項とキューバ革命、そしてウクライナ戦争

2022年08月02日 | 国際・政治

 日本で、ウクライナ戦争の停戦・和解の話がほとんど進んでいないことに、私は苛立ちを感じます。朝日新聞のオピニオン&フォーラムの声欄に、”「戦争反対」だけで本当にいいのか”と題する自営業の方(埼玉県67)の文章が出ていました。下記のような内容です。
「戦争反対」。この一般的な言葉がウクライナについても使われているが、違和感がある。「プーチン政権によるウクライナへの軍事侵攻反対」と明確に言うべきだ。「戦争反対」というだけなら、ウクライナが抵抗をやめれば戦争は終わり、プーチン政権の支配下に入る。それでもいいのか。識者や評論家の中にもそうした考えを述べる人がいるが、ウクライナはロシア国内へは攻撃していない。防戦だけである。それも「戦争」だからやめるべきなのだろうか。
 ロシアと隣接する日本は、防衛のあり方について再考を求められている。平和な生活を暴力で壊されないためにどうしたらよいのか。「外交努力」という人もいる。核を持ち武力で脅しをかける指導者がいる現実の中で、「外交努力」は可能なのだろうか。力自慢の強い人の隣で、ひ弱な私はその時点では対等に話ができない。人間の知恵ややさしい感情は、この不合理な現実とどのように対応したらよいのだろう。ただ「戦争反対」を唱えるだけでは、その議論を深められないのではないだろうか。
 その”思い”はとてもよくわかります。でも、私は、受け入れることができません。彼は、きっと朝日新聞の熱心な読者なのだろうと思います。だから、彼は毎日熱心に朝日新聞を読んで、このように考えるようになったのではないかと想像します。

 先日朝日新聞は、国際大学GLOCOM・山口真一准教授の文章を掲載しましたが、その中に、”…ロシアはマスメディアとSNSを駆使して、多言語でプロパガンダ発信を続けている。その結果、偽・誤情報が特に西側諸国以外のアジアやアフリカなどで急速に広まっていることが、英エコノミスト誌によって指摘されている。…”とありました。そうかも知れません。でも、ウクライナがロシアと戦争をしている現在、逆に、ゼレンスキー政権やゼレンスキー政権を支援している米英によって、プロパガンダが広められている可能性を考え、両者の言い分を確認しないようでは、真実は知り得ない、と私は思います。
 朝日新聞には、上記と似たような「声」が、以前にも投稿されていました。歌壇でも、ロシアを悪と決めつけた一方的な内容の歌をしばしば目にしています。
 私が問題だと思うのは、朝日新聞を含め、日本のメディアが、ロシア側の主張やロシア側の情報をきちんと取り上げ、西側諸国の主張や情報との乖離・溝を埋める努力をしていないと思われることです。また、ロシアがウクライナ侵攻に至る経緯や背景、そして、ウクライナ戦争を主導しているアメリカの問題を、ほとんど無視していることも、大きな問題だと思います。
 日々、ロシアを悪とし、プーチンを悪魔に仕立て上げるような、プロパガンダとしか思えないような報道がくり返されているので、上記のような「声」が、投降されることになったのだ、と私は思います。西側諸国で停戦・和解の話が進まないのは、そこに原因があると思います。
 でも現実は、決してそのような一方的なものではないと思います。どこにでもあり、過去にもくり返されてきたような対立だと思います。そして、その対立は、ロシアとウクライナの対立というよりは、ロシアとアメリカの対立だと思います。だから私は、逆に、ロシア側の情報を取り上げたり、過去のアメリカの戦争や対外政策の諸問題をふり返ったりしているのです。

 今回取り上げたのは、キューバ革命ですが、キューバでも、アメリカは見逃すことのできないことをやっています。
 下記の抜粋文にあるように、キューバ独立時、アメリカは「プラット修正」を一方的に決定し、キューバ国民の反対を押さえて、それをキューバ共和国憲法に組み入れさせ、強引に条約化したようです。
 「プラット修正条項」は、8条からなっているのですが、その中には、キューバ領土の第三国への割譲および財政能力を超える国家債務の禁止の条項があり、キューバの独立の保持および生命・財産および個人的自由を保護する能力のある政府を維持するため、アメリカの介入権を認める条項があり、海軍基地のアメリカへの売却ないし租借などを内容とする条項もあるのです。主権侵害は明らかです。
 だから、アメリカの戦争や対外政策の歴史は、民主主義や自由主義の否定であったと言えるように思います。そして、アメリカは、今なおそうした歴史を引き継いでいると思います。その一端は、2019年6月、トランプ前大統領が、「ノルドストリーム2」プロジェクトを阻止するため、制裁措置を持ち出し、ドイツに対しエネルギーでロシアに依存しないよう警告したことなどにもあらわれていると思います。
 アメリカの対外政策が、真に民主主義や自由主義に基づくものであれば、ウクライナ戦争はなかったと思います。また、停戦・和解がまったく進まないのも、アメリカの対外政策における民主主義が、機能していないからだ、と私は思います。

 下記は、「概説 ラテンアメリカ史」国本伊代(新評論)から「第八章 躍進と変革の時代」の「キューバ革命とカストロの選択」と「ゲリラ活動と左翼革命運動」を抜萃しました。アメリカという国の正体を、よりよく知るための手掛かりが得られるように思います。
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                  第八章 躍進と変革の時代

 キューバ革命とカストロの選択
 キューバは1930年代の危機の時代に、ソルヘンシオ・バディスタ軍事独裁政権を誕生させていた。世界恐慌により砂糖モノカルチャー経済に大きな打撃を受けたキューバでは、1925年に選挙で選ばれたのち憲法を改正して独裁権力を握ったヘラルド・マチャド大統領に対する激しい反政府運動が展開され、労働者の大規模なストライキ攻勢によって1933年にマチャド政権が倒れ、バディスタ軍曹の率いる反乱軍と学生・知識人たちの支援によって民族主義を掲げたラモン・グラウ政権が誕生した。しかしグラウ政権は、「プラット修正条項」を含む1901年の憲法を廃止したため、アメリカのさまざまな圧力と干渉を受け、グラウ大統領を裏切りアメリカ側に寝返ったバディスタによって政権担当後わずか4ヶ月で倒された。
 1934年にF・D・ルーズベルト大統領がとった善隣外交政策の一環としてアメリカとキューバの間で結ばれた新条約により、1902年の独立以降アメリカの軍事介入権を認めてきた「プラット修正条項」が撤廃された。そしてアメリカの軍事介入に代わる秩序維持と政治の安定のために設置された国家警備隊を掌握したバディスタはキューバの実質的な支配者となり、1940年から1944年まで大統領の地位に就いた。さらに1952年の大統領選挙に立候補したが、敗北が予想された3月にバディスタはクーデターで政権を奪取し、やがて独裁権力を掌握した。バディスタによる政権掌握に反対したフィデル・カストロの率いる反乱勢力は1953年7月26日に東部オリエンテ州のモンカダ兵営を襲撃して失敗した。反乱勢力はカストロをはじめとして中間層の若者から成り、兵営を
占拠して武器を奪う計画であった。失敗した彼らは捕らえられたが、のちに脱獄してメキシコに渡り、ここで革命運動組織「7月26日運動」を結成した。そして1956年11月に武力蜂起を計画してキューバに向い、のちオリエンテ州の山岳地帯に潜入してゲリラ闘争を続けた。はじめ農村部の農民の支持を得たカストロらは、都市部における反政府勢力を結集していき、1959年1月1日にバディスタ政権打倒に成功した。
 この過程でみるキューバ革命は民族主義的社会改革を目指すものであった。しかし1959年5月に農地改革法が制定され、さまざまな改革が実施されはじめると、キューバに莫大な利権をもっていたアメリカはただちに反発した。そしてキューバの社会経済構造を根本的に変革する諸政策が明らかになるにつれて、キューバとアメリカの対立は急速に深刻化していった。キューバ砂糖の主要な輸入国であるアメリカが砂糖の輸入制限策をとると、1960年2月にキューバはソ連と貿易援助協定を結んでアメリカを牽制した。しかしその結果、キューバとアメリカの対立は決定的となり、またキューバ革命も社会主義路線へと決定的な方向転換をすることになった。アメリカはキューバ砂糖の輸入を停止し、キューバはそれに対してアメリカ企業の国有化を断行し、1961年1月に両国は外交関係を断絶した。同年4月、アメリカ政府の支援を受けた反革命軍がキューバに侵攻して失敗した。その直前にカストロはキューバが社会主義革命を目指すことを宣言し、やがてソ連をはじめとする社会主義国との関係を強めていった。1962年10月にソ連のミサイル基地建設をめぐる「ミサイル危機」が発生し、世界は核戦争の一歩手前まで追い詰められた。
 この後キューバ革命は、ソ連に大きく依存しながらも根本的な社会・経済改革を進め、革命の制度化と経済の再建を目指した。この間ソ連および東欧社会主義国との関係を深めたキューバは、南北アメリカ大陸では孤立したが、同時にラテンアメリカ諸国でゲリラによる武装蜂起を支援する政策をとった。1960年代から1970年代の軍事政権時代に各国の左翼勢力は厳しい弾圧を受け、指導者たちは国外へ亡命したが、彼らを受け入れたのもキューバであった。また各国で軍事政権に反対し社会革命を目指す左翼ゲリラ活動がこの時期には活発となったが、それを支援しようとしたのもキューバであった。このようなキューバの積極的な姿勢に対して、アメリカは経済・技術・軍事援助を強化してラテンアメリカ諸国政府に左翼ゲリラ活動のせん滅を支援し、社会経済開発を促進させた。ケネディ大統領時代に創設された「進歩のための同盟」は、ラテンアメリカ諸国の社会経済開発を促して第二のキューバの出現を防止するために策定された政策であり、農地改革、教育と医療・公衆衛生の普及、技術援助など多面的な指導・援助の政策が展開された。
 一方キューバ革命は、キューバ共産党の一党独裁政権の下で徹底した社会・経済改革を実施した。外国資本を接収し、土地所有者と資本家を追放し、人種・性別による社会的差別をなくし、社会保障政策を実現した。教育・医療などの基本的な社会サービスは無料となり、住宅・電気・水道・交通などの料金は低く設定され、基礎的生活物資については配給制度がとられ、国民は平等で公正な社会生活を保障された。しかし砂糖生産に依存するモノカルチャー経済を脱却できず、ソ連と東欧諸国の援助に大きく依存してきたキューバ経済は国民の生活を平等にしたが、豊かにすることはできなかった。しかもソ連と東欧で社会主義経済の破綻が明らかになった1980年代後半には、キューバ経済も困窮の度合を深めた。革命キューバはこれまでに国内の反革命分子を国外へ追放してきたが、革命後30年間に約100万のキューバ人が祖国をあとにしたと推定されている。

 ゲリラ活動と左翼革命運動
 1959年のキューバ革命の出現から1979年のニカラグア革命の成功までの20年間を、ラテンアメリカ現代史では「ゲリラ闘争の時代」と呼ぶことができる。キューバ革命の成功に刺激され、またのちにはカストロの革命戦略による支援を受けて、ラテンアメリカ諸国で社会主義革命を目指す左翼ゲリラ活動が1960年代から1970年代にかけて活発となったからである。ゲリラ運動家たちが主張したラテンアメリカ革命は必然であるとする展望は、支配層の腐敗、外国資本による支配、絶望的な度合にまで拡大した貧富の格差などが厳然と存在するラテンアメリカ諸国で社会正義と公平を求める人々に一つの希望を与えた。そしてカストロの率いるキューバ革命の成功は、何にもまして大陸規模での革命を目指す彼らにとっては大きな支えであった。さらに当時進展していたベトナム戦争は、ラテンアメリカにおいてもベトナム人民の反米闘争に呼応した革命蜂起を促した。これらの左翼革命勢力の最も大きな支えとなった革命キューバは、国内に「ラテンアメリカ連帯組織」を設置し、さまざまな国の革命勢力が一同に会する場を提供しるゲリラ勢力の盟主となった。またキューバは各国のゲリラ組織に武器弾薬を提供して、その活動を支援した。
 キューバが支援したゲリラ闘争は、はじめフランス人左翼作家レジス・ドブレの革命戦術である農村部に革命の拠点を作る戦法がとられた。1959年には早くも、パラグアイ、アルゼンチン、ドミニカ共和国の農村に革命拠点がつくられた。その後1960年代に入ると、ベネズエラ、コロンビア、グアテマラ、エクアドル、ペルー、ボリビア、ブラジルに同様の拠点がつくられ、ゲリラ活動が展開された。ゲリラ組織は学生と中間層出身の知識人らを数多く集め、優れたゲリラ組織の指導者たちを生んだ。ブラジルのゲリラ闘争理論家として名を知られたカルロス・マリゲーラやコロンビアのカストロ派民族解放軍のゲリラ組織に参加し農民問題にとり組んだカトリック教会司祭出身のカミロ・トーレスは、そのようなゲリラ活動の指導者であった。またキューバ革命の指導者の一人であったチェ・ゲバラはボリビアの山間部にゲリラ戦工作のために潜入して、1967年にボリビア軍のゲリラ闘争部隊との戦闘で戦死した。しかしこれらの農村革命拠点方式によるゲリラ闘争は失敗した。その重要な要因は、ゲリラ側の軍事力が不十分であったこと、国により多様な農村事情を無視したこと、そして各国の軍部が備えていた近代装備と技術およびアメリカ軍部仕込みの反ゲリラ闘争戦術が成功したことである。アメリカ軍はラテンアメリカ諸国の軍部に反ゲリラ戦術を教え込んだだけでなく、農村部の開発に軍部のもつ技術と人材を提供する新しい開発戦略を展開させ、それらの政策を進歩のための同盟や平和部隊などの援助政策と連携させて、ゲリラ活動と農民を分断し、農村を舞台にしたゲリラ活動を崩壊させた。
 はじめゲリラ闘争は主として農村部が舞台であったが、農村部で失敗したゲリラ組織はやがてブラジル、ウルグアイおよびアルゼンチンでは都市ゲリラとして活動しはじめた。都市部に組織の基盤をつくりあげたゲリラ勢力は、激しい破壊的なゲリラ活動を展開し、これら三国の都市生活に暗い閉鎖的な時代をもたらした。各国とも軍部が政治・司法・経済・教育・文化などあらゆる分野を統括し、弾圧した。ブラジルでは、数多くのゲリラ・グループが組織されたが、1969年9月に起こったアメリカ大使の誘拐事件が広く報道されたことによって、ゲリラ勢力の存在が国民に知られることなった。ウルグアイでは1968年から1972年にかけて、トゥパマロスと称した都市ゲリラ組織がテロ・誘拐・要人の暗殺を繰り広げ、これに対して軍部は国内宣戦布告を出し、2800人におよぶゲリラを逮捕し、指導者層を処刑して、ゲリラ活動を鎮圧した。アルゼンチンでは1969年から1976年にかけてモントネロスやトロツッキー人民革命軍という名のゲリラ・グループによるテロが横行し、多くの人的・物質的被害を出した。
 農村ゲリラも都市ゲリラも、その指導層は大学教育を受けた中間層出身の若者たちで、彼らは既存の支配体制をアメリカ帝国主義の手先であるとみなし、国境を越えた連帯意識を強く有していた。しかし彼らはほとんどの国で、農村でも都市においても、大衆蜂起を促すことはできなかった。むしろ危機感を強めた軍部による抑圧的な強権支配を促すことになった。1960年代から1970年代にかけてラテンアメリカ諸国に出現した軍部支配の政治は、一部ではこれら世界の冷戦構造と連帯した左翼ゲリラ革命軍運動に対する対応でもあった。それにもかかわらず多くの地域でゲリラ勢力は残存し、ゲリラ活動は続いた。その理由は、1960年代以降のラテンアメリカのゲリラ活動が米ソの冷戦構造の一部であったこと以上に、この地域の抱える問題から発生していたことにあった。とくに中央アメリカでは1961年に結成されたサンディニスタ民族解放戦線をはじめとして、エルサルバドルでも、グアテマラでも、ゲリラ組織が結成されたが、この地域ではコスタリカを除くと寡頭支配勢力が長期にわたって政治と経済を支配し続け、ゲリラ活動による権力への挑戦以外に社会改革の道はほとんどなかったのである。しかしのちにとりあげるように、ラテンアメリカのこれらの反体制ゲリラ活動が唯一成功したのは、1979年ニカラグア革命であった。ニカラグア革命が成功した背景には、ニカラグア独自の歴史的条件があった。1920年代に反米闘争を展開したサンディニッスタ運動の存在である。


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