真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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東京裁判NO4 満州国元首溥儀の証言

2020年07月12日 | 国際・政治

 幕末の尊王攘夷急進派が倒幕によってつくった日本は皇国(スメラミクニ)でした。だから、”万世一系ノ天皇之ヲ統治ス”と定められました。その皇国の目標は、”天皇の御稜威(ミイツ)がたえず四方に広がること”でした。
 幕末の尊王思想の代表的な思想家、藤田東湖は「弘道館記述義」に
孝と敬の道をひたすらつくして天照大神の御威霊をおしひろめるならば、ひとり日本の人民がかぎりない徳化に浴するばかりでなく、遠く海をへだてた外国の国々もまた、わが国の徳を慕い、その恵みを仰ごうとしないものはなくなるであろう
と書いていました。
 また、吉田松陰は、「幽囚録」に

善く国を保つものは徒(タダ)に其の有る所を失ふことなきのみならず、又其の無き所を増すことあり

と書いていました。
 『宇内混同秘策』の著者、佐藤信淵は、
皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし”
 とか、
凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし
 と書いていました。こうした幕末の思想家の書いたものは、戦時中も、軍人を中心に多くの人に読まれたといいます。
 だから、大日本言論報国会の会長をつとめた徳富蘇峰は『頑蘇夢物語』に、
日清日露の戦争は、悉く皆維新の大改革に、淵源している。而して大東亜戦争は、即ちその延長である。”
と書いたのです。
 天皇のいわゆる「人間宣言」(1946年(昭和21年)1月1日に官報により発布された昭和天皇の詔書)に書かれている
天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念
 が、日本の侵略戦争の原因であったことは否定できず、しっかり受け止められなければならないと思います。

 本当に溥儀が板垣の申し出を拒絶したかどうか、また、拒絶できたかどうかということには疑問がないわけではありませんが、幼かったとはいえ、溥儀は清朝の最後の皇帝です。日清戦争や日本軍による東三省の武力占領に内心憤りを覚えていたでしょうし、実際の政治運営が、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官の指導の下にあった満州国の元首を引き受けたことを、”私の一代の恥辱であった”という気持に偽りはなかったと思います。
 当時の溥儀の言動は、すべて、逆らうと殺されるかもしれないという恐れの中にあったと考えられ、その証言は、真摯に受け止めるべきだと思います。

 というのは、日本軍の独断専行に苦慮しながら、当時領事館で直接軍や中国側と交渉に当たっていた外交官・森島守人の著書、「陰謀・暗殺・軍刀…一外交官の回想…」(岩波新書)四 陰謀の産物 満州事変」の「柳条湖事件の発生」に下記のようにあるのです。
 ・・・
 …林総領事は当夜友人のお通夜に行っていたため、わたしは独り官邸に残っていたところ、10時40分ごろ、突然特務機関から柳條溝で中国軍が満鉄線を爆破した、軍はすでに出動中だから至急来てくれとの電話があった。私は大きくなると直感したので、総領事に対する伝言を残すとともに、館員全部に対して徹夜の覚悟で至急参集するように、非常召集令を出して、特務機関へ駆けつけた。特務機関内では、煌々たる電灯の下に、本庄司令官に随行して奉天を離れたはずであった関東軍の板垣征四郎高級参謀を中心に、参謀連が慌しく動いていた。板垣大佐は「中国軍によって、わが重大権益たる満鉄線が破壊せられたから軍はすでに出動中である」と述べて総領事館の協力を求むるところがあった。私から「軍命令は誰が出したか」と尋ねたところ、「緊急突発事件でもあり、司令官が旅順にいるため、自分が代行した」との答であった。私は軍が怪しいとの感想をいだいたが、証拠のないこととてこの点には触れず、くり返し外交交渉による平和的解決の必要を力説し、「一度軍の出動を見た以上、奉天城の平時占領位なら外交交渉だけで実現してみせる」とまで極言したところ同大佐は語気も荒々しく「すでに統帥権の発動を見たのに、総領事館は統帥権に容喙、干渉せんとするのか」と反問し、同席していた花谷の如きは、私の面前で軍刀を抜き、「統帥権に容喙する者は容赦しない」とて、威嚇的態度にさえ出た。こんな空気では、もとより出先限りで話のつけようもないので、一応帰館した。そして、一切を総領事に報告した上、東京への電報や居留民保護の措置にとりかかった。
 ・・・

 東京裁判において、日本人被告の弁護人が、日本に対して批判的な溥儀の証言にどのような反論をしたかはよく知りませんが、私は、当時の状況を考えれば、国際社会が受け入れることのできるような反論はできなかっただろうと思います。
 なぜなら、日本は「神国」で、日本人は”他ノ民族ニ優越セル民族”であるという”観念”と、上記、森島守人の著書の記述にみられるような、脅しや武力で思いを通してきた成功体験によって、日本軍は破壊的カルトにも似た組織になっていた側面が否定できないからです。

 下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から、「証言台に立つ溥儀廃帝」を抜粋したのですが、溥儀の三種の神器に関する答弁中の鵜沢弁護人による突然の異議申し立ては、的外れであると同時に、日本が特異な国であることを感じさせるものではないかと思います。
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                第四章 満州へ侵略のステップ

                  証言台に立つ溥儀廃帝

 濃紺の背広姿で
 八月十六日は東京裁判にとって画期的な日であった。この日、前満州国皇帝溥儀氏が証人として法廷に出頭、宣誓したのちキーナン首席検事の直接尋問に答えた。彼は、満州国草創の裏面史、清朝最後の皇帝から五歳で帝位を追われ、北京、天津、旅順を転々、ついに日本関東軍の傀儡となって満州国皇帝に擁立されるまでの、数奇をきわめた生い立ちをこまごまと陳述した。
 満州国は英米から独立国家として承認されなかったとはいえ、形の上では十余年にわたって五族三千万の民衆の上に君臨していた一国の元首が法廷に立つということは、ニュールンベルク裁判にもついになく、前大戦にもその例をみず、ましてそれ以前の世界政治の歴史にかつて想像もされなかった裁判史上空前のことである。
 終戦と同時に溥儀氏は長春の宮殿からソ連の手に捕らえられ、フォーリ(ハバロフスク近郊)に抑留の身となり、今回東京裁判のためウラジオストックからソ連官憲に護衛されて、空路東京に到着、八月十二日はじめてキーナン検事と対面した。
 濃紺の背広に同じ色のネクタイ、平凡な一個の人間に還った溥儀氏は、午前十一時二十五分バンミーター法廷執行官に導かれて静かに証言台に立った。満廷はこの新証人を迎えて緊張した。
 前日まではまばらだった来賓席をはじめ連合国記者席も満員の盛況。同じく満員の階上傍聴席の一隅には溥儀氏幼少の頃から側近に侍し、満州国建国後は護衛長を勤めた工藤忠氏や、その他満洲ゆかりの人々も詰めかけて、法廷を流れる「廃帝の声」に深く聴き入った。キーナン首席検事の直接尋問は特に口供書によらず、法廷で直接の陳述をきくための重要尋問であった。溥儀氏は少しだみ声の北京語で
「1906年北京に出生、名は溥儀という。満州流には名前の前に愛親覚羅(アイシンカクラ)をつける。1909年清朝の帝位に即(ツ)く」
 ややうつむき加減に一つ一つ尋問に答えていく。

 数奇の運命を淡々と
 廃帝溥儀が自らの生い立ちを語る陳述はまるで一篇の物語であった。
「父の名は愛親覚羅。1909年即位してから三年目の1911年国内革命(武漢革命の孫文らの旗挙げ)が起こり、孫中山(孫文)先生は国民党を領導して新しい中国を作り上げた。その年十二月中華民国成立とともに私は退位した」
 それから以後の波乱にとむ廃帝の途を偲んでか、証言する溥氏の顔はかすかにふるえる。
「私は実は愛親覚羅の子ではなく、皇位継承のため養子となったのである。生母は隆裕(ロンユン)皇太后である。母は孫中山先生の革命に非常な賛意を表し、自ら進んで宗主権を孫先生に譲ることを主張した。中華民国成立後、民国政府は皇太后に対し非常に感謝した。
 中華民国が成立し皇帝から退位したのは1911年、私が五歳のときであった。その後も北京の宮殿(紫禁城)に住んでいた。民国政府は清朝皇帝としての身分保持を認め、毎年四百万元の生活費を提供してくれた。宮殿内の一切は内務府の所管であり、私は宮殿内に家庭を持っていた。
 1924年馮玉祥(ヒョウギョクショウ)、張作霖両将軍が争い(第二奉直戦争)その戦後馮玉祥がクーデターを起こし私たち清朝王族に対し、その日のうちに宮殿を去るよう命じた。私は身をもって紫禁城を脱出したが、北京を離れず、実父のもとに身を寄せた。
 当時新聞紙上に私に不利かつ危険な宣伝がおこなわれていたので、私の英語教師ジョンストンがまずドイツ人の病院へ連れていった。当時私は十九歳だった。ジョンストンは私の隠れ場所について英国公使マクレー、オランダ公使オーデンカと相談し、英公使館はせますぎるので、日本公使館に行くようすすめた。私と同伴した者はわずかにジョンストンおよび鄭孝胥(テイコウショ:後の満州国初代総理)の二人だった.
 半年あるいはもう少し日本公使館にいてから、段祺瑞(ダンキズイ)臨時執政の許可をえて天津にはニ十歳から二十七歳まで七年間いた。
 天津にいた当時日本軍と中国軍との間に衝突が起こった。すなわち九・一八事件で、日本は武力により東三省を占領した。当時天津ではいろいろ不思議なこと、危険なことがあいついで起こった。あるときは中国人の名で一籠の果物が届いた。その中には爆弾が入っていて、発送人が誰だかわからなかった。またそのころ天津駐在の軍司令官香椎将軍が来て、私が天津に住むのは危険だから旅順にいけとすすめた。強制なのでやむをえず旅順にいった。天津では妻と父が一緒だったが、旅順へは家族も同伴せず後からやってきた。同行したのは鄭孝胥(テイコウショ)とその息子である。約半年のち関東軍司令官本庄繁大将が参謀板垣征四郎大佐を私の許につかわしてきた」
 溥氏の陳述はいよいよ満州国との因縁に話しが進んで行き、被告席の板垣将軍はさりげない態度で聴き耳を立てている。

 板垣大佐との密談
 キーナン検事の直接尋問はさらにつづく。
キ 「板垣大佐はどんな話をしたか」
溥 「およそ二時間半も会っていたろうか。彼は東三省における張学良旧政権が人民に対して悪政を行い、圧迫を加えたので色々の事件が続発し、日本の既得権益にも悪い影響を及ぼしている。旧軍閥を東三省から追っ払って人民の幸福をはかるため満州に新政権を樹立したいと言った」
キ 「それは板垣の独断か。上官の命令によるものか」
溥 「本庄司令官の命令によると言った」
キ 「どういう役について欲しいと言ったか」
溥 「私が満洲人であるため新政権の領袖になってくれと言った。そして日本は東三省に領土的野心はまったくなく完全な独立政権を樹立すると言った」
キ 「あなたは承諾したか」
溥 「拒絶した。板垣は新政権を作るに当たって日本人官吏を採用し、満州人同様の官吏となりうることを要求したからだ」
キ 「板垣の申し入れがなされるまで、日本軍は満州で何をしたか」
溥 「日本軍は東三省を占領し、同時に奉天に地方治安維持会を日本側の手で組織した。土肥原がその主要人物だった。それから逃げ後れて奉天に残っている中国官吏に対して日本軍の圧迫がくわえられた。
キ 「板垣の申し出があったのは?」
溥 「私が旅順に着いたのは1931年の冬で、それから半年位経ってからだ」
キ 「申し出が拒絶されたときの板垣の態度は」
溥 「非常に不満そうにみえた」
キ 「板垣との第一次会見後顧問と相談したか」
溥 「顧問の鄭孝胥と万繩栻(バンジョウショク)に会った。板垣はこの二人にも会った。申し出は関東軍の既定方針であるから拒絶すれば関東軍は断固たる手段に出ると顧問に言ったと聞いた」
キ 「顧問と板垣の話は、あとで顧問から聞いたのか」
溥 「そうである。顧問の話では板垣はもしもこの申し出を拒絶すれば生命の危険があると脅迫した。それで両名と顧問の一人羅振玉(ラシンギョク)は板垣の申し出を受諾するように私に勧めた」
キ 「顧問に対する板垣の態度はどうであったか」
溥 「顧問は板垣が非常に厳格で強圧的だったと話した」
キ 「満州国元首に推すことを主張したのは誰だといったか」
溥 「本庄軍司令官だといった」
キ 「当時顧問の名は?」
溥 「鄭孝胥(テイコウショ)、万繩栻(バンジョウショク)、羅振玉(ラシンギョク)、鄭無(テイブ)の四名」
キ 「四人の内中国国民政府に官職を持っていた者はいなかったか」
溥 「ない」
キ 「顧問と板垣の申し出を拒絶すべきかについて相談したか」
溥 「本当の気持ちは拒絶したかった。然し四人は受諾をすすめた。当時日本軍の圧迫を如何なる民主国家も阻止しえなかった。私だけで抵抗はできなかった。」
キ 「抵抗の意志はあったのか」
溥 「私の意志は拒絶するにあったが、武力圧迫を受け、しかも一方に顧問から生命が危険だから応諾せよとすすめられてついにやむをえず受諾したのだ」

 このように語りつつ溥氏は裁判長に訴えるかのように両手を大きく広げて身体を乗り出す。広い額には一つかみほどの頭髪が垂れ下がり、溥氏の顔は少し青いようだ。「板垣大佐とはこの被告席の板垣のことか」とキーナン検事にとわれ、溥氏は板垣被告の方を見るともなく素早い一瞥を投げ、無表情に「是(シイ)」とうなずいたのみ。板垣被告の横顔は固く、ゆがんでいた。

キ 「満洲の元首になるということを拒んだら生命に危険があるとの脅迫は直接聞いたか」
溥 「板垣が私に拒絶するなら日本軍は断固たる手段をとると言ったこと、顧問らも同様のことを告げられ私に伝えたこと、それからまた関東軍は秘密のあばかれるのを恐れていたことなどから、身辺の危険を感じた」
キ 「大きな国家の国政を司る経験を持っていたか」
溥 「私は幼い時に政権を譲ってしまい、政治的経験はなにもなかった」

 清朝最後の幼帝であり、満州国の初代皇帝であった人の、この寂しげな答弁を最後として十六日の直接尋問は終わった。
 溥儀氏に対するキーナン首席検事の直接尋問は十九日も続行。その直接尋問はこの皇帝がいかにロボット的存在であったかの要点を仮借なく追及し、多くの秘密に挑んでいったが、これに答える溥儀証人は絶えず眉をケイレンさせ、身体をこきざみに動かしつつ、ときどき激した調子で証人台を叩くなど、満廷の注視を浴びる。
「日本人は満州を奴隷化し、中国と南方を奴隷化し、さらに世界を奴隷化せんとしていた。三種の神器の剣と鏡をうけとってかえったとき、家族は皆泣いた。これは私の一代の恥辱であった」
 と、ときをえて胸一杯の憎悪を叩きつけるような激しい陳述をつづけ、かつてその妻が吉岡中将によって毒殺されたこと、神道は一方的に強制され、皇帝以下すべての満州国人の宗教の自由がなかったことなど、はてるともない暴露をくりひろげていった。

  「私の妻は毒殺された」
 同日午後一時再開後、溥儀氏は、
「私の妻は当時二十三歳で非常に仲が良かった。そして中国の国家を愛する人間の一人であった。私に対しては常に今はやむをえないから忍耐して、また自由の日が来たら満州を日本から取り返しましょうと語った。しかるに彼女は日本人によって毒殺されたのです。(この証人台を激しく叩き満廷なにごとかと注視)
 その下手人は吉岡中将であった。最初は中国の医者が見ていたが、のち吉岡が日本の医師を紹介した。彼女の病気は重かったが死ぬほどでなかった。医師の診察が終わってから、吉岡と医師は三時間にわたって秘密になにか話していた。その夜その医師がきて、翌日の朝彼女は死んだのである。本来なら葡萄糖を一時間ごとに注射しなければならないのに、日本の医師が来てから朝までに二、三本しかうたなかった。
 吉岡はそのまま宮中に泊り、憲兵や看護婦の報告をきいていたが、死んだときくや早速かえった。その後一ヶ月ほどたってから、吉岡は私に日本婦人と結婚せよといって沢山の写真を見せたが私は表面上拒絶できぬので、結婚は愛というものが根本だから、何人たるとを問わず私が愛しうるものなら結婚すると返事していた。のち私は若い中国人と結婚した。なぜ若いのを選んだかといえば、日本の教育をうけていないこと、そして自分で教育しようと思ったからである」
 宮廷の幄(トバリ)深く秘められた夫人の死の真相を、法廷ではじめてあきらかにしたのち溥氏はさらに日満関係について憤然と、
「吉岡は満州国は日本の子供のようなものだと言った。梅津もまた同意見であった。すなわち日満は一徳一心であると説明、満州を日本の植民地化せんとしたのである。一徳一心とはいわゆる八紘一宇に発している」
 と八紘一宇思想の侵略意義を体をのり出し、両手をあげて説明する。

 「三種の神器」
キ 「天皇から剣と鏡を与えられたのはいつか」
溥 「1940年」
キ 「その鏡にどんな意味があると教えられたか」
溥 「日本の古代の神話によると鏡は天照大神を象徴するものである」
 と説明しかけたが、この時鵜沢弁護人異議を申し立て、
「日本の神道は学者、政府、政治家の間にも意見の一致を見ていない。また日本政府は神社を宗教とは扱っていない。証人のきいた神道は神社の神道か、証言するからには間違いの起らぬよう確実な責任者をあげてもらいたい」
 とせめよれば、ウ裁判長
「ただ今の異議は本証言の関連性ではなく、真実性に関するものだ。真実性如何は弁護人側より後刻証人ないしは証拠を提出して反証をあげることができる」
 と却下した。
 
 
 
             

 

  


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